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香芝の民話池の主評定
「分川池(ぶんがわいけ)には、主(ぬし)がおるらしい。」
ひとりの男が、突然飲みさしの湯呑茶碗(ゆのみぢゃわん)を下において言い出した。
ここのところ、何日も雨が続いていて、山へも野良(のら)へも出られんもんやから、村の男が何人か寄っては、昼間から酒を飲んで暇(ひま)つぶしをしておった。
「池の主の話は、あっちこっちでよう耳にするが、『主』というんは一体何なんやろ。」
ひとりの若い男が、分別(ふんべつ)くさい顔でそう切り出した。
「主と言うのんはなあ。白蛇(へび)や。
何百年も何千年も住みついとる大きな白蛇や。」
一番年かさの男が、まるで自分の眼で見て来たようにそう云う。
皆は、少しの間、押しだまったまま酒を飲んだ。
池へ鮒(ふな)釣りに行ったまま行方が知れぬ男のこと。
山菜(さんさい)とりに分川池の近くまで行った女が帰って来なかったこと。
それぞれに、そんな出来事を知っていたし、今あらためて思い出してはいたが、誰もそれを口には出さなかった。
「あれもこれも池の主のしわざやろか。」
と内心思っていても、「そうや。」と言われるのが恐ろしかったのや。
長雨もやっとあがって、村の人はもと通り外でよく働いた。
「池の主」の事を考えている暇もないほど、忙しい毎日だった。
ところが、ある日の夕方、帰り道でつれになった二人の男が、何やらひそひそ立ち話をしている。
若い方の男が「おれ、池の主を見たで。」と、ささやいたのが始まりや。
「池の主を見たもんがある。」という噂(うわさ)は、あっという間にひろがった。
都合の良いことか悪いことか、二、三日して大雨になった。
先の男たちは、ひとり残らず、村のお宮さんの社に集まって来た。
口火を切る者もなく、皆はやたらに酒をあおった。
「実はな。池の主を見たんや。」
やっとのことでひとりの男が切り出した。
「うすくらがりで、あんまりはっきりはせんが。」
男の声は、消え入るように低い。
みなは、じわじわと身を前に寄せて、人の輪(わ)は小さくなった。
「太さは床柱(とこばしら)ぐらいや。」
「ええっ。それで長さは。」
「わからん。頭の方も尾の方も笹(ささ)の中にかくれとったんや。」
「ほんなら色は。」
「わからん。草色やったような。土色やったような。」
「はっきりせんかい。そいつは動いとったんか。」
「わからん。見てるときはじいっとしとったが、ちょっとよそ見したまに、そこにおらんかった。」
問いつめられて、男は泣き出しそうになった。
「短い足がはえとったやろが。」今までだまっていたひとりが云った。
「水かきあったやろ。」別のひとりが云った。
「えらがあった。」
「尻尾があった。」
「うろこがあった。」
「ああだ」「こうだ。」と、大さわぎになった。
結局みなが、誰にも云わずに、ようすを探りに行ってたんや。
蛇の胴体(どうたい)を見て来た者。
鯉(こい)の背中を見て来た者。
大うなぎを見て来た者。
がま蛙(がえる)に出会った者。
それぞれが、自分が見たものこそ池の主やと思いこんだ。
余りのおそろしさでそれらは全部、とてつもなく大きかった。
「ほんなら一体、分川池のほんまの主は何なんや。」
分別(ふんべつ)くさい顔がそう云った。
こんどはもう、誰も何も云わんかった。
「池の主が何もんでもええ。
近寄って食われんようにさえすればええんや。」
みなは腹の中でそう思っていた。
「今夜は、やけに酒が減った。」
雨の中を、ちりぢりに家に帰る男たちの足どりは重かったが、誰ひとり酔っぱらっている者はいなかったそうや。
ああ こわい、こわい。