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この新著『石器のふるさと香芝』という題名からは、当然、著者の「香芝町に対して、先史考古学的視角を立てる」とする意図を汲み取ることが出来る。
もちろん、それは、一応、認めなければならないが、この著書の内容は、決して、そのような、一方に偏した、単純な記述でないことに、先ず、注目したい。
著者、小泉俊夫君は、私が、京都から大和に来た、極く早期の生徒の一人で、当時、太平洋戦争の終結直後で、生産増強などの線に沿って、農業、従って、動・植物など、生物学に強調のある学問をやった一人である。
それでいて、著者は、教職についた後、かたわら、諸方の考古学的発掘に関心を持ち、援助し、且つ、熱心に従事して、「歴史」という文化科学に傾いていた。それは、著者が、幼少年時代を、宇陀の芳野で過した、ということに依るとも考えられる。
宇陀という地域は、謂わば、山地帯であり乍ら、『古事記』や『日本書紀』の上では、早くあらわれ、また、先史遺跡なども、いろいろ、問題になっているのは周知の通りである。
やがて、著者は、宇陀から、下田に移り住むことになり、香芝町は、その第二の故郷になった。
そして、『香芝町史』編集にあたっては、私たちと一緒に、そのための、調査や執筆も担当したが、それも、10年以前のことになった。
また、昭和33年頃には、私は、『大和下田村史』や『二上村史』の編集で、香芝町の内外をよく歩いたので、『香芝町史』、並びに、私の生徒であった、著者の扱った、この『石器のふるさと香芝』には、少なからぬ近親感があるのである。
『崇神九年紀』で、天皇が、神人の霊夢に従って、赤色の盾と矛を以って、墨坂の神を祀り、黒色の盾と矛とを以って、大坂の神を祀ったことは、出色の文字であるが、ここには、香芝町が、このように古くからの地点であり、また、それが、東西交通の要路に当っていることが示唆されているものである。
この著者が扱っている様々な側面、すなわち、古代・中世・近世・近代・現代という時代的な様相、並びに、宗教・民俗・政治・社会・経済などの変様を記述しているのも当然のことである。
それにしても、著者が、よくそれらを概括して、「歴史家は、後を向いた予言者である」といわれた言葉に違わず、地域の未来像に対しても少なからぬ示唆を与えていることを信ずることを記して以って、序とする。
昭和63年6月15日
池田 源太