ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 石器のふるさと香芝 > 平安京と藤原氏の全盛期

本文

平安京と藤原氏の全盛期

ページID:0007593 更新日:2021年12月13日更新 印刷ページ表示

 延暦十三(七九四)年、都が平安京に遷されたころから、大和の国は、政治や文化の中心から離れて、一地方の色彩が強くなる。
 律令政治の確立のために貢献した藤原氏の子孫は、朝廷の政府の要職を占め、次第にその権勢を伸ばしてきた。
 そして、九世紀の後半から皇室との姻戚関係が深くなり、十世紀末には摂政や関白の地位を独占し、十一世紀にはいると、ますます専横を極めて全盛期を迎える。
 道長が娘のいし威子の立后に際し、

此の世をば 我が世とど思ふ望月のかけたることも無しと思へば

 とその権勢を誇ったのもこの時期であった。
 このように、藤原氏が栄耀栄華をきわめることができたのは、全国に多くの荘園を所有していたからであった。
 奈良時代には特例としてしか認められていなかった土地の私有が、十世紀ころになると寺社や貴族の間では半ば公然となり、政治を私物化していた藤原氏は、位階の昇進や官職の任命に手心を加え、多くの私有地(荘園)の寄進をうけ所有するようになった。
 都が大和にあったころの香芝は、塚山穴古墳や片岡尼寺とみられる寺院が作られ、皇族級要人との関わりが強く感じられる地域であった。
 ところが、平安京に遷都してからは、政治や文化の中心から遠ざかって、先人の遺産が忘却され、あるいは衰退の方向をたどって、葛下地方の旧跡となってしまう。
 代わって、貴族の繁栄に伴う日本的な仏教文化がおこり、葛城の山系を行場とする修験道や極楽浄土の信仰に救いを求める浄土の教えが、この地方の人びとの心をとらえ、その遺産とみられるものが現れる。
 一方、平安時代初期の『延喜式』神名帳には、「大坂山口神社」や「志都美神社」などの記載があり、伝統的に葛下の里に根づいていた神社信仰がしのばれる。

(1)律令制から荘園支配への移行

(2)式内の古社

(3)葛城の修験道

(4)源信僧都の誕生地

(5)平安期の仏教遺産

(6)興福寺の平田荘と片岡荘