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逢坂の山口神社の前にある三岡邸の前庭に、凝灰岩製の層塔が祀られている。
この層塔は大坂山口神社に奉仕していた大坂直の墓であるとする伝説もあるが、一方、葛城の修験道に関係するものとして、今日でも信者の人たちのなかに、遠くから参詣する人がいると聞いた。
修験道は、飛鳥時代後期に御所市の茅原で生れた役小角(行者)が創始したといわれ、平安時代になって天台・真言両宗の密教と結びつき、吉野の大峯山寺(金峯山)を中心に、捨身の苦行をとおして霊験を得ようとする山伏の修行で知られてきた。
この金峯山寺へは、宇多天皇をはじめ藤原道長・頼通・師道など摂関家の人びと、更に、白河上皇など都の皇族や貴族が相次いで入山している。
その時、釈迦入滅二千年後にあたる「末法の世」を意識し埋納された経塚からは、道長の経筒をはじめ幾多の国宝や重文の遺物が出土した。
『本朝高僧伝』のなかの役小角伝には、小角三十二歳のとき家を棄てて葛木山に入り、岩窟に住み藤葛を衣にし、松果を食して、難行苦行の末金峯山に道場を開いたことが記されている。
以来、女人禁制の霊場として今日に及んでいる金峯山寺に対して、葛城山系の金剛山の山頂には金剛山寺(転法輪寺)があり、役行者が開基した山伏の修法の場と伝えられている。
江戸時代の『葛嶺雑記』では、葛城の修験道場の巡礼について、紀州の友ヶ島から根来寺・粉河寺・和泉の牛滝山、河内の岩湧寺を経て大和に入り、大澤寺・石寺から金剛山へ上り、帰りは朝原寺・一言主寺・當麻寺を巡拝して大和川筋の亀の瀬に出ている。
京都を出発して葛城の霊場を巡拝する修験者にとって、逢坂の山口神社のあたりは、當麻から亀の瀬に至る信仰の道筋ではなかったかと考えられる。
そして三岡邸の層塔には、こんな葛城修験者の信仰が、今も息づいているような気がする。