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日本が中国の隋や唐に国使を送るようになって、大陸から班田制が取り入れられ、新しい律令社会が展開する。
豪族の私有の農地は公田として国有化され、国・郡・里の行政区轄が定められて人びとの戸籍ができ、斑田収受する仕組みを作って官制、税制、兵制を整え、天皇親制の古代国家が誕生していく。
しかし、大陸の諸制度が日本化して律令政治が完成する迄には、条里制に基づく班田農地の整理、行政組織の確立と中央、地方の役人の配置、徴税、兵役等々、政治の改革に伴う幾多の困難があった。
六四五年の大化改新の宣言から、飛鳥板蓋宮・難波長柄豊崎宮・飛鳥岡本宮・近江大津京・飛鳥浄御原宮など皇宮が転々と遷されたことは、この間の不安定な政情を物語っているかのようである。
続く藤原京・平城京の造営は、唐の都制を模した大規模な都制で、律令政治の完成期に入った国力の充実をあらわしている。
同時に天皇中心の律令制政府の上級官僚となった貴族が唐文化を摂取して新しい文化の担い手となって、平城京を中心に華やかな天平文化の花を開かせるのであった。
この時代の前半に太子道に沿う新しい須恵器の生産地となった志都美地方では、寺院が建立されて仏教文化が栄え、皇族級貴人の墳墓とみられる平野塚穴山古墳が出現する。
また、市内全域にわたって条里の整理が進行し新しい律令体制の中に組み入れられる。
二上山の雄岳の山頂には、天武天皇第三皇子で天皇の死後謀反のかどで死罪を受け、非業の最期を遂げた大津皇子が葬られている。
この大津皇子の悲劇の時代に、官人として活躍していた威奈真人大村の骨蔵器が墓誌を刻字して穴虫山から出土し、威奈氏の出自に関係する土地としても注目される。
平城京遷都後の河内と大和を結ぶ古道は、竹内峠から高田・橿原へと通じていた横大路と、そのやや北寄りの大坂山を越える香芝を通る大坂道に対して、竜田越や暗峠越の通行量が多くなる。
金剛砂が採掘され凝灰岩が切り出されて、この地方の特産として、南都の建築現場に運ばれたのは王寺・斑鳩に通じていた太子道であったと思われる。
逢坂や穴虫に鎮座する式内の大社、大坂山口神社は、大坂山を越える峠の大和側の山麓に位置し、大和の守護と峠道の安全を祈願する神社であった。
また、志都美神社(今泉)や片岡坐神社、舟戸神社(王寺町)、竜田新宮(斑鳩町)など由緒ある古い神社と、片岡尼寺(尼寺)、片岡王寺、西安寺(王寺町)など、法隆寺に連なる古代寺院が、これらの古道の沿線に点在し、古い一つの文化ルートを形成していたことが知られる。