ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 石器のふるさと香芝 > (5)穴虫の火葬墓

本文

(5)穴虫の火葬墓

ページID:0007559 更新日:2021年12月13日更新 印刷ページ表示

古代律令時代の香芝

(1)平野塚穴山古墳とその被葬者像

(2)尼寺の古瓦と寺院跡

(3)壬申の乱と香芝

(4)大津皇子と二上山

(5)穴虫の火葬墓

 今から約二百年前の明和年間、馬場村の農夫が、威奈真人大村の骨蔵器を穴虫山から掘り出した。
 その時、遺骨を漆器の骨壷に納め、これを金銅製の容器に入れ、更にこの金銅製の容器を陶器の外容器の中に納入してあったと伝える。
 その三重の容器のうち、金銅製の容器だけが残されていて、現在は四天王寺の所蔵になっている。
 この骨蔵器は、総高二四・三センチの台付球状の容器で、合子の壷の部分に三九一文字の墓誌が刻銘してある。
 その墓誌銘によると、被葬者の威奈真人大村は、宣化天皇四世の孫威奈鏡公の第三子として生まれ、文武朝に少納言になった。
 大宝元(七〇一)年、大宝律令の制定で従五位下侍従になり、慶雲二(七〇五)年に越後城司に任ぜられ正五位下まで昇進している。
 いわば皇族と血縁関係のある官人として都に出仕し、藤原京のころ当時新しく国域に編入された
蝦夷地に近い越後城司の要職に赴任、任地で病歿したので、恐らく火葬して遺骨を穴虫の山中に帰葬したのであろう。
 墓誌には、

 慶雲四年四月二十四日をもって疾にふし越の城に終わる。
 時年四十六才。
 同年冬十一月二十一日、大倭国葛木下郡山君里狛井山崗に帰葬。

 と記されている。
 彼の帰葬された山君里の狛井山崗は、穴虫山であり、彼にとってこの地がどんな関係の土地であるのか墓誌には記されていない。
 ただ、桧前五百野宮の宣化帝の皇統威奈氏は、葛城氏の一族か茅渟皇子一族との関係があって、この山君里が故地になって帰葬された可能性がある。
 そうすれば、塚穴山の石槨墳や威奈大村の骨蔵器の出土は、この地域の有力者が、律令制の成立期に皇室との関わりを持つ人たちであったと思われる。
 昭和三十年、穴虫の字「シロヤマ」からも、奈良時代の火葬用骨蔵器が出土した。
 この骨蔵器は凝灰岩の家形をした蓋石と、立方体の櫃身の部分からなり、現在、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館に保管されている。
 また同じような凝灰岩の骨蔵器を転用したとみられるのが、尼寺般若院の東側の土壇上に、行者像を祀る石櫃として残されている。
 近年、高山台の造成地でも土師器に納骨し遺物を伴った下級官人の高山火葬墓が検出された。
 更に、香芝市に隣接する當麻町加守でも、金銅製の骨蔵器の出土がありこの地域が古代の墓域であったとも考えられる。
 そうだとすれば、まだ多くの火葬墓が地下に眠っている可能性があり、発見の機会には専門家の調査を受けるようにしてほしい。

(6)大坂越えの道

(7)古代条里制の名残り