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(3)壬申の乱と香芝

ページID:0007542 更新日:2021年12月13日更新 印刷ページ表示

古代律令時代の香芝

(1)平野塚穴山古墳とその被葬者像

(2)尼寺の古瓦と寺院跡

(3)壬申の乱と香芝

 磯壁の「吉ヶ池」については、『日本書紀』(天武天皇元)「壬申」の年に、近江軍(大友皇子方)の壱伎史韓国と大和方大海人皇子軍の大伴連吹負の両軍勢が激突した「葦池」の古戦場であると『香芝町史』伝説の項に記されている。
 ところが、この葦池について、『壬申の内乱』(岩波新書)の著者北山茂夫氏は所在不明としているが、『王寺町史』では江戸時代初期の『和州旧跡幽考』に「肩岡池、達磨寺艮辺、葦が池といふあり。
 これにや」と記されていることから、推古朝の肩岡池を修理拡大したのが現在の葦田池ではないかと推論し、壬申の乱の葦田である可能性を示唆している。
 天智天皇の晩年、吉野宮に隠棲していた皇弟の大海人皇子は、天皇の没後、挙兵して宇陀から伊賀・伊勢を通って、不破宮を拠点に近江路から大津京を攻める体制を整えていった。
 他方、大和古京(飛鳥京)は、大海人皇子方の大伴吹負が占拠したものの、近江方の大和進攻に対して守勢を余儀なくされていく。
 吹負は近江方の大野臣果安の大軍を迎え撃つために乃楽山(奈良方面)
 に向かうが、途中河内方面からの近江軍に対し坂本財・長尾直真墨らに兵を分けて竜田へ、佐味君少麻呂を大坂(逢坂)に、鴨君蝦夷を石手道(竹内峠?)に遣わして、河内との国境の整備にあたらせている。
 そのため弱体化した吹負軍は乃楽山の戦いに破れ、敗走中、墨坂(榛原)で不破の本隊からの援軍を得て、金綱井(今井付近?)の本陣に還って体制を整え、韓国軍を迎撃するため當麻衢に向かって進軍する。
 良福寺の西端に「千股」の地名と「千股池」と呼ぶ近世初頭に改修された溜池があり、古代の當麻郷域であって、衢の地名にふさわしい葛下川流域と大坂方面に分岐する交通の要地と考えられる。
 『天武紀』にみえる「聞近江軍至自大坂道而将軍引軍如西、到當麻衢興壱伎史韓国軍戦葦池側」の記述からは當麻衢と葦池は、そう遠くない位置であったと読みとれる。
 さらに、佐味君少麻呂が逢坂で迎撃体制にあることを考えると、韓国軍は二上山麓を當麻方面に進路をとるのが当然で、當麻衢に到着した大伴吹負軍とは吉ヶ池(葦池)の側で戦うことになった。
 山麓の径を進軍する長い隊列の側面からは、佐味君の軍勢が攻めたて、韓国の大軍を撃破することができ、戦況が大海人方に有利に傾きはじめたのが葦池の戦であった。

(4)大津皇子と二上山

(5)穴虫の火葬墓

(6)大坂越えの道

(7)古代条里制の名残り