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(6)大坂越えの道

ページID:0007568 更新日:2021年12月13日更新 印刷ページ表示

古代律令時代の香芝

(1)平野塚穴山古墳とその被葬者像

(2)尼寺の古瓦と寺院跡

(3)壬申の乱と香芝

(4)大津皇子と二上山

(5)穴虫の火葬墓

(6)大坂越えの道

 大和から二上山の山麓を越えて河内に通じる道は、古く石器時代のころから石器を運ぶ道として利用され始めたものと思われる。
 とくに大和政権が成立したころには、西日本の各地やアジア大陸への水路にあたる瀬戸内と、奈良盆地の南部の都を結ぶ重要な通路の一つであった。
 大和南部を東西に横切る横大路に接続する道には、平石峠・竹内峠・岩屋峠・穴虫峠・関屋峠など、峠越えのいくつかの街道があった。
 とくに、香芝市を通る峠道として、

大坂を 吾が越え来れば 二上の
 もみぢ葉流る 時雨降りつつ(巻十、一八五)

 と『万葉集』に詠まれている大坂越えの峠道があった。
 この大坂越えの道は、歌詩からみて二上山近くにあった峠越えの道らしく、落葉が風に吹き流される谷川沿いを通っていたと考えられる。
 一説には、古地名の大坂を、今日の逢坂にあてようとする考えがある。
 『日本書紀』には、天武天皇八(六七九)年十一月に竜田山と大坂山に関を置き、崇神天皇十年九月、箸墓(桜井市)の築造にあたって大坂の石を手送りで運んだ記録がある。
 『古事記』には、崇神天皇のとき大坂の神に黒色の楯と矛を祀った記述がある。
 このなかの大坂の石は大坂山でとれる石材をいい、箸墓には柏原市芝山の玄武岩が運ばれて用いられているという。
 大坂の神は大坂山口神社をあてることができよう。
 したがって大坂山と呼ばれていた山は、相当広い範囲の山地であった可能性が高い。
 万葉の時代には、二上山の北麓を越える穴虫峠と関屋峠から逢坂に至る一帯の山地が大坂山と呼ばれ、その大和側と峠を越えた河内側も含めて、大坂越の道であったと私は考えている。
 そうすれば、『続日本紀』に「大坂の沙を以って、玉石を治めた人…」の記述があるのも、現在の金剛砂の産出する竹田川に沿った地域と合致する。
 近畿の中央部を東西に横断して伊勢から東国に通じるには、この大坂の峠を越えなければならなかった。
 そして、高田の辺りで横大路に連絡して桜井に至り、初瀬谷を通って宇陀を経由し、伊賀・伊勢に出る「伊勢街道」に通じていた。
 一方、西大和を南北に結んでいた道に太子道があった。
 名前の通り聖徳太子が斑鳩の学問所(法隆寺)から河内の飛鳥に向かわれた道であったといわれている。
 この太子道は、王寺方面から穴虫峠を越えて河内に達する道で、葛下川に沿って南下する當麻道と畠田で分岐して、下之寺・畑之浦・逢坂を経て穴虫峠に達している。
 途中、畑之浦で田原本街道と、逢坂で伊勢街道と、穴虫で長尾街道とそれぞれ交差していて、今日、その岐点には幾多の道標を残し、旧道の面影をとどめている。
 ともあれ、太子道もまた古代の大坂峠を越える道であり、大和から河内への旅人が通行した峠道だった。
 今日では、穴虫峠にも関屋峠にも『万葉集』時代の峠道の情緒は感じられない。

(7)古代条里制の名残り