ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 石器のふるさと香芝 > 中世武家社会の展開

本文

中世武家社会の展開

ページID:0007592 更新日:2021年12月13日更新 印刷ページ表示

 中世の武家社会は、鎌倉と室町の両幕府が政権を掌握していた時代で、前期封建社会ともいわれている。
 平安時代には、班田制が崩れて荘園制度が発達し、土地や人民が個々の領主や荘官という私的な従属関係に支配されるようになった。
 そして、地方の荘園の中で成長した武士が、中央に上がって政界に進出し、古代の公家(貴族)勢力と抗争をくり返して、新しい主従関係を中心とした封建的な武士の支配体制をつくりあげていく。
 鎌倉時代には、幕府が各地に配置した守護や地頭を中心に武家勢力が拡大し、室町時代には、足利氏から任命された守護が大名化して各地に分国を形成し、やがて天下の統一をめざす戦国大名の対立抗争する戦国社会となる。
 以上のような日本の中世史の流れのなかで、古代の伝統が息づいていた大和では、興福寺別当が守護職をつとめ、大和国一円を支配する。
 もともと大和には、藤原氏一族の荘園が多く、その氏寺の興福寺や氏神の春日神社に寄進され、彼等の荘園の支配に新興武士の侵入を許さなかったのである。
 その反面、興福寺の衆徒や春日社の国民が、大和国内の庄司や名主となって、在地の武士団を形成し統率していた。
 もともと武家政権が成立したはじめ頃には、荘園領主で守護職を兼ねる興福寺の勢力が強く、在地の庄司に任じられた興福寺僧や春日社の神官も、守護職別当の強力な支配下に置かれていたと考えられる。
 しかし、土着の庄司は、しだいに荘内の農民たちと密着し、寄人たちを召しかかえて武力を持つ集団へと発展し在地の武士団となる。
 このころ片岡荘を預かる片岡氏は、平野の城山を拠点に武力抗争に備え、平田荘のうち二上山北麓の土地を預かっていた岡氏は、畑の居館と背後の城山を結んで地域を死守する体制を整えていった。
 このように大和一円の衆徒・国民は、武力を強化して、興福寺の権力に対抗するまでに成長する。
 南北朝の動乱では、興福寺山内の大乗院が北朝(京都)方に、一乗院が南朝(吉野)方に分かれて加担し、興福寺別当の支配力が急速に弱体化していく。
 一方では大和の各地に割拠する在地の武士団は、狭い国内で互いに盟約をとりかわして結びついたり、或は敵対して対立と抗争することがしばしば起きる。
 応仁の乱においても大和武士団は、北部の筒井氏が東軍の細川方に加わり、南部の越智氏が西軍の山名氏方について戦闘し、その後も大和国内の諸武士団を二分して争っている。
 戦国諸大名が勢力を拡大しつつあるなかで、三好・松永の軍勢が大和に侵入し、大和国内は騒然となり、大和武士団はその統制力を失う。
 やがて、織田信長が登場するに及んで、大和も彼の支配下におさめられ、在地の武士団は大半が没落していった。

(1)鹿島社と結鎮座

(2)畑城跡と岡一族の砦

(3)岡一族の興亡

(4)片岡氏とその城塁跡

(5)伝統産業─金剛砂の採掘─

(6)伝統産業─鋳物の生産─

(7)乱世の歴史を秘める石仏