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(1)鹿島社と結鎮座

ページID:0007520 更新日:2021年12月13日更新 印刷ページ表示

中世武家社会の展開

(1)鹿島社と結鎮座

 下田の鹿島神社には、「結鎮座」と呼ばれている宮座があり、鎌倉時代はじめ頃からの宮座衆の記録が残され、奈良県の指定文化財になっている。
 その『座衆経営録』によると、鹿島神社の縁起は、平安時代末の承安二(一一七二)年に、源義朝の家臣であった鎌田政光(光政?)が、常陸国の鹿島大明神を勧請し分祀したのがはじまりと書いている。
 この縁起書は、説話めいた物語風に記述しているので、その内容についていろいろな解釈がなされる。
 しかし、鎌倉幕府の力が全国に及んできたころに書かれた縁起書であるので、将軍の頼朝が格別の信仰心をもっていた常州の鹿島大明神を、この地に勧請したという話が生まれて当然だと考えられる。
 この鎌田政光の子孫という鎌田家が鎌田の村に現存し、当麻の北墓 にあるその祖先の供養塔(平安末期・重要文化財)と伝える五輪塔を、子孫代々今も手厚く祀っている。
 さて鹿島社の結鎮座は、神社に奉仕して祭礼を行う役目をもち、鎌倉時代の建久七(一一九六)年から今日まで、約八百年にわたる入衆者の名簿が『結鎮座入衆記録』として書き継がれている。
 座衆の家に長男が生まれると一刻を争って結鎮座に届出、入衆録に記入されると、その記入順によって上十人衆・下十人衆・三十人衆・平座衆などの段階が決まる。
 そして、上十人衆の一老と呼ばれる最年長者を中心に、結鎮座のすべての運営が行われる。
 『入衆録』と共に鹿島社には『座衆経営録』があり、それは室町時代の文安元(一四四四)年に法楽寺の安学院の僧栄進が平安時代の天治元(一一二四)年に書かれた年号がみえる法楽寺の縁起や祭礼(法会)に関する記録と鎌倉末期の元弘元(一三三一)年に書かれた鹿島大明神の縁起と祭礼に関する記録を書き写し、それに自分の後書きを付したものである。
 現存しているのは、江戸時代に再度書き写されたものであるが、栄進の原本を忠実に書き写していると思われる。
 それによると、天治の頃の座衆結鎮の儀式に正月一六日「結鎮庄(荘)厳之事附号的」とあり、二月三日にも「荘厳事 但如正月」とある。
 また、元弘の『経営古記』では、「正月一日 カシマミヤ シヤウコン 二日 ホウラクシノ□□□□□フクモリ 十六日 ケチン」と、法楽寺と鹿島社の祭礼が同じ座衆の人達によって合一した形で実施されていたように記録されている。
 現在、結鎮座は、桜井市の鹿路の天一社でも行われており、祭文の朗読は昔、多武峰の僧侶が行ったと伝えている。
 鹿島神社の場合も、最初は法楽寺の行事であったと記録されており、仏教に起源をもつ法楽寺の行事であったと思われる。
 それが鹿島社の勧請によって鹿島座ができ、二座が合体して現在の結鎮座に発展したと考えられる。
 ところが、いつの頃か座の主催が鹿島社に移り、江戸時代の文化・文政期には鹿島社から法楽寺のお旅所まで、総勢五十人余りの渡御行列が行われている。
 そのころの結鎮座の祭礼には、近郷から老若男女が多数見物に集まり、村を挙げての盛大な行事であったことがうかがえる。

(2)畑城跡と岡一族の砦

(3)岡一族の興亡

(4)片岡氏とその城塁跡

(5)伝統産業─金剛砂の採掘─

(6)伝統産業─鋳物の生産─

(7)乱世の歴史を秘める石仏