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(4)片岡氏とその城塁跡

ページID:0007557 更新日:2021年12月13日更新 印刷ページ表示

中世武家社会の展開

(1)鹿島社と結鎮座

(2)畑城跡と岡一族の砦

(3)岡一族の興亡

(4)片岡氏とその城塁跡

 室町時代末期に活躍した片岡氏の城跡は、現在、上牧町大字下牧の集落の背後にあって、葛下川沿いの片岡谷を臨む伊射奈岐神社のある丘陵上に位置している。
 この片岡城は、『片岡系図』のなかの佐門国春のとき「……下牧村居城拵……」と付記されていて、築城の時期を知ることができる。
 また『多聞院日記』では、国春の子、新助春利が永禄十二(一五六九)年、松永久秀に攻められ落城したことになっている。
 ところが、片岡氏については、鎌倉時代末期の正和四(一三一五)年の『春日若宮祭礼記』に、流鏑馬を奉仕した衆徒・国民の一人として初めて登場する。
 中世前半の大和の領主は春日社・興福寺であり、その各地の社寺領を預かる荘官が衆徒・国民であった。
 平田荘の万歳・岡氏ら片岡荘の片岡氏は、春日・興福寺に隷属した荘官で、地方武士の棟梁として成長する。
 南北朝から室町時代には、興福寺内の一乗院と大乗院の対立もあって寺門の権威がゆるむ一方、各地の大和武士は徐々に勢力をたくわえて、応仁の大乱ごろには中央の争乱にも参加して活躍する。
 とくに大和国衆のなかでも河内の畠山管領家領に接する片岡氏は、河内からの侵入に備えて、片岡谷西側の地域を固めなければならなかった。
 現在、平野と今泉の西山にある城跡は、急峻な山岳を利用した要害の地にあり、下牧城以前の片岡氏の古城塁跡と考えられる。
 この古城跡を本拠にして活躍した片岡殿とは、前述の鎌倉期以来の伝統をもつ一族郎党で、惣領家を中心に片岡の地方を支配し、大和武士団の双壁筒井・越智の両雄のどちらかを政情や利害に応じて盟主に選んでその地位を守ってきた。
 しかし、『大乗院寺社雑事記』によると、明応七(一四九八)年四月に、畠山尚順の率いる河内・大和の連合軍に攻略され、片岡雲門寺蔵主(利持)は自害する。
 この片岡利持には跡目を継ぐ子どもがなく、古片岡殿がここで断絶し、下牧に城を築いた片岡国春の父、弥五郎道春が入って片岡惣領家を相続しているようである。
 その後、縁続きの筒井氏と組した片岡氏は、織田信長の大和平定に従った松永久秀軍の攻撃を受け敗れるが、久秀が信長に抵抗し新しく織田・筒井の連合が成立すると旧領が安堵され、豊臣秀吉の時代まで片岡の地で活躍する。
 今泉の字、雲門寺にそびえる古城山は、利持以前の片岡氏の拠点で、享保九(一七二四)年の『今泉村諸邑明細帳写』に、「此山之儀者神竜山雲門寺ト申古跡ニ而御座候、古来七拾二坊之寺地之跡ニ而御座候、此山内ニ片岡殿本城之跡有之、則片岡之廟所御座候…」と記され、その所在を伝承している。
 今日、目にする雲門寺跡の縄張りは、松永氏の占領下に改修されているといわれ、今後、この雲門寺城塁の遺構を調査解明するとともに、王寺町の送迎山城から関屋の北側の七郷山城に続く明神山系一帯の砦跡を考究してみる必要を感じている。

(5)伝統産業─金剛砂の採掘─

(6)伝統産業─鋳物の生産─

(7)乱世の歴史を秘める石仏