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鎌倉時代に入ると興福寺の平田荘は、高田・布施・万歳・岡など在地の八荘官によって分割支配されるようになった。
なかでも、香芝市東南部の五位堂・鎌田の地域には万歳氏の支配が伸び、畑・穴虫・磯壁・良福寺・狐井・下田などは畑城を本拠に一乗院系の岡氏が支配していた。
彼等は興福寺に一定の年貢を納める課役を果たすと、そのあとは自分の意のままになる地方の政治的実権をもっていたようである。
したがって、彼等は荘園内の治安維持や外敵の侵入に備えて、寄人を召しかかえて武力を培い、その勢力を強化することができた。
とくに興福寺が多数の僧兵を擁して大和の守護となり、大和武士団の頂点に立つと、在地の武士団はその配下に属した。
これら在地の武士団も、南北朝の動乱を契機にして領主化し、興福寺の荘園支配が崩れていく原因になった。
大字「畑」の「ダイジョウゴウ」と呼ばれている山に、岡氏の城跡と伝える砦の遺構が現存する。
この山城の遺構は二上山麓に伸びる丘陵の山頂を平坦にし、中央の鞍部を深く切通して陣地を構築している。
城跡には井戸跡もみられ、中世城塁の典型的な姿をとどめる。
この時代の武士たちは、平常は地主として近郷の村落内に居住し、ひとたび戦乱がおこれば、このような山岳の要害を利用した城塁に篭城して敵を迎撃する。
いわば村落内では村役人となって農民と共に生活し、領内の利益と自衛のために武力をもって戦う、兵と農の両面をもった武士であった。
今日、畑城跡に登ってみると、奈良盆地全域が一望のもとに見下ろすことができ、大和一円の武士団と狼煙で連絡しながら活躍していた武士たちの雄姿がしのばれる。
また、岡氏一族郎党の砦とみられる狐井・岡崎・ヘモンド塁などは、すぐその眼下にあって、一族の動静が手にとるようにわかる位置に築かれている。
大和と河内を結ぶ交通の要地に城塁を構えた岡氏は中世大和の動乱のたびに、河内方面の武士の動向を窺いながら、自らの命運をかけて活動しなければならなかった。