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日本の歴史で原始時代と呼ばれている大昔の様相は、考古学を中心に地質学・人類学など幅広い分野の科学的研究によって、近年急速に解き明かされようとしている。
先年の新聞報道では、宮城県の「中峰遺跡」・「上高森遺跡」などの古い地層から検出された石器が、10万年以上もさかのぼる前期旧石器であると伝えていた。
しかし、最近そのことが調査者の捏造であることがわかり再調査をしているという。
もし、前期旧石器の遺跡が確認され、人骨の伴出でもあれば、日本の列島にも原人がいたことになる。
大昔の人類は、文字もなく言葉も未発達な原始生活を、何十万年もの長い間、私たちと同じこの地上で続けてきた。
その様相は、彼等が地上に遺していった生活用具の石器や土器などの諸遺物と、生活の場であった遺跡の調査からしか知ることができない。
我が国では、土器のなかった旧石器時代から、土器を発明した縄文時代まで何万年もの長期にわたって、山野や海浜で自然に産する動植物を捕獲・採集して生活を維持していた。
この時代の石器は、日本列島に棲息していた動物の消長を示すかのように、器形が時期によって特色のある変化を示している。
また、土器の発明は人びとの生活の維持と発展に、画期的な役割を果たしたが、相変わらず自然物に依存する原始的な狩猟と採集の生活から脱しきれなかった。
このように長く続いた未開の生活も、大陸から稲作が伝えられたことによって急速に文化的な発展を遂げる。
わずか2000年ほど前の弥生文化の伝来は、水田での稲作だけでなく、金属器や新しいタイプの弥生式土器の出現によって、日本人が何万年・何10万年も達成できなかった安定した経済生活を生み出した。
そして、米の生産と貯蔵が食生活を変え、農耕の共同作業が人びとの集団を拡大して、村を作り国家を形成するようになり、社会を大きく変化させた。
こうした日本の歴史の黎明期に、私たちの住む香芝市では、人びとがどのように歴史の足跡を遺しているのだろうか考察してみる。