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大和の大王と葛城の豪族

ページID:0007591 更新日:2021年12月13日更新 印刷ページ表示

 村ができ、同じ川筋や低湿地など、一つのまとまった地域にあって、村々が共同して水路を作り水田を開発する集団のなかで支配者が現れ、小国家を形成するようになるのは、稲作の進んだ弥生時代の後半と考えられている。
 中国の歴史書『後漢書』の東夷伝や『魏志』倭人伝には、そのようすを想像できる記述がある。
 なかでも倭人伝には、三世紀頃に耶馬台国の女王卑弥呼が、周囲の小国家を統合して大きな国をつくっていったことが書かれている。
 そして、その女王卑弥呼が死んだので、径百歩もある大きな塚を造って埋葬したと述べている。
 今日、私たちが古墳と呼んでいる大きな盛土の墳墓について、初めて記録されているのがこの卑弥呼の塚のことであって、そのころから日本では、強大な支配者が死亡すると、他の集団に負けないよう競って大きな墳墓を造るようになったのではないだろうか。
 その頃以来、外形や内部構造、副葬品にいろいろと変化をみせながら、七世紀の終わりごろまで、約四~五百年間、古墳築造の伝統が受け継がれていく。
 そして、その古墳の内容が調査研究された今日では、前期から中期・後期・終末期などと築造の時期が区分されるようになってきた。
 奈良盆地の東南隅にあたる三輪山の周辺部で、桜井市や天理市にあたる地域に、前期の大形前方後円墳が集中しており、大和政権成立期の大王墓であると考えられている。
 この頃まだ香芝市や葛城の地方には、大形の前方後円墳を構築するような強大な首長権をもつ支配者が君臨していなかったようである。
 箸墓や崇神・景行陵、茶臼山古墳・メスリ山古墳などの三輪山を中心とした周辺の前期古墳に比して、市内別所の城山二号墳や瓦口の長谷山古墳など前期末と思われる古墳の規模をみた場合、比較にならない小規模なものである。
 ところが、四世紀末から五世紀代の古墳時代中期になると、河内の陵墓を中心に葛城の地方にも、巨大な前方後円墳が出現してくる。
 それは、郡制下の南・北葛城郡にあたる御所から馬見地方にかけての葛城の地方に、強大な支配権が成立したことを意味している。

(1)狐井城山古墳と葛城の豪族

(2)顕宗・武烈両陵のこと

(3)須恵器と古代瓦の窯跡

(4)二上山麓の石切り場の遺構

(5)後期の古墳