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(5)後期の古墳

ページID:0007560 更新日:2021年12月13日更新 印刷ページ表示

大和の大王と葛城の豪族

(1)狐井城山古墳と葛城の豪族

(2)顕宗・武烈両陵のこと

(3)須恵器と古代瓦の窯跡

(4)二上山麓の石切り場の遺構

(5)後期の古墳

 巨大な狐井城山古墳に続いて、群集墳と呼ばれる高塚式の墳丘や横穴式の石室を架構した古墳が、一定の地域内に集中して造られた後期古墳の時代になる。
 香芝市内では、瓦口の御坊中一・二・三号墳、御坊山一・二号墳、鎌田飛地の勘平山一・二号墳などの一群と、北今市一号墳から四号墳までの藤山丘陵の一群などが後期の群集墳とみられる。
 この他に形態上後期に位置づけられる平野の車塚古墳(平野一号墳)・平野二号墳・上中の山口古墳・今泉一号墳などがある。
 奈良盆地周縁の山麓部には、この地方よりもっと多数の古墳が群集する地域があり、中に千塚と呼ばれる大古墳群がある。
 これら古墳群に比較して、市内の後期古墳は極端に群集しているとはいえないが、馬見丘陵南端部や藤山丘陵に存在するものにはその傾向がみられる。
 五位堂から下田にかけての葛下川の低地部には弥生時代の遺跡が点在することから、引き続き古墳時代に集落が発達し、群集墳築造の母体になったと考えられる。
 ところが、片岡の谷筋のように基数が少なく散在する状態の地域は、何かその背景になっている理由がありそうに感じる。
 その第一に、葛下川は谷間の低地を深い溝状の川流となって流れ、丘陵裾の傾斜地を水利する支流が少なく、水田の開発が遅れていたのではないか。
 したがって、古くから土着していた集団の有力な支配者がいなかった。
 第二に、新しい須恵器の製造技術を身につけた技術者集団が移住してきて、この地を支配するようになってから期間が短く、多くの墳墓を構築するまでには至らなかった。
 など、何か特殊な理由があった地域と私なりに考えている。
 しかし、経済的に発展してきた六世紀後半になると、集団の力が徐々に強大になり、七世紀には巨石を用いた石室の車塚古墳や、平野塚穴山古墳のような立派な石槨式の古墳が現れてくる。
 さて、大和朝廷を支えていた中央の豪族の間で政争が起き、蘇我氏など新しい勢力が抬頭し、渡来系の人びとと手を結んで国政の中枢部に登場してくると、日本の政治も大きな変革期を迎える。
 推古女帝の摂政となった聖徳太子は、大陸の強国を意識して、それまでの世襲的な豪族の力関係を温存した氏姓制度に改革を加え、能力ある者を役人に任用して天皇の権力を強化する方法をめざした政治を進める。
 その結果、大豪族の連合的な支配に代わって、新しく中央政府の役人の支配力が次第に強くなっていく。
 この頃、葛下川下流域の片岡地方が本格的に開発されたと考えられ、この理由に太子の片岡池(籏尾池又は分川池?)の築造や片岡山遊行の『日本書紀』の記述があげられる。
 そして、六四五年に断行された大化改新はその具体的な現れであり、六七二年の壬申の内乱後になって強力な天皇統治の国家が実現する。
 こうした歴史が流れ変遷してゆくなかで、葛城氏一族の本拠として繁栄したこの地方は、大陸の政治や文化を摂取した支配者によって徐々に新しい政治勢力の舞台へと移行していく。