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現在、香芝市では、北今市の顕宗天皇陵と、今泉の武烈天皇陵の両陵が、天皇陵として治定されている。
『記』・『紀』の記録では、傍丘磐杯の南陵(顕宗陵)と北陵(武烈陵)となっており、葛城氏一族の葦田の荑媛とつながる両帝の陵墓がこの傍丘(片岡)の地に営まれたことは当然と思われる。
ところが墓誌・墓碑がなく伝承に基づく日本の帝王陵が、後世になって治定される場合、すべて異説なく決定したものではない。
文字は伝来していたとはいえ、慣用化していなかった時代の顕宗・武烈陵もその例外ではなく、異なった伝承や伝説があり、治定に至るまでに相当の経緯があったと想像される。
昭和四十七年に学術的な発掘調査が実施され、国史跡に指定された「平野塚穴山古墳」は、幕末まで地元で顕宗天皇陵とされていた。
また、大和高田市築山の陵墓参考地とその南の狐井城山古墳にも、傍丘磐杯の北陵と南陵に比定する説があった。
こうした事情のもとで両陵が現在地に治定されたのである。
今日、両陵とも陵域内に立ち入ることは許されない。
大正十四年版の『奈良県史跡名勝天然記念物調査会報告』によると、北今市の顕宗陵は前方後円となっているが、武烈陵の形状は単に山形としか記されていない。
また、顕宗天皇の異母姉にあたり、同時代とみられる飯豊皇女の御陵が、新庄町北花内の埴口丘陵に治定されていて、今なお濠をめぐらした前方後円の墳形をとどめている。
こんなことを総合して考えた場合、陵墓を単に考古学の対象としてとらえると、築山の陵墓参考地を武烈陵(北陵)に比定し、その南の前方後円である狐井山古墳を顕宗陵に比定する意見に案外賛同者が多かった。
しかし、最近の調査では築山古墳の築造は四世紀末にさかのぼるとされ、また、近年古代史学者の塚口義信氏は本市の狐井城山古墳を武烈陵と推定する見解を公にしている。
いずれにしても、葛城氏と関係深い両帝の陵墓は、葛城氏の本拠とみられる馬見丘陵周辺の傍丘に造営され、権勢を誇る一族の手によって手厚く埋葬されたはずである。