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(3)須恵器と古代瓦の窯跡

ページID:0007543 更新日:2021年12月13日更新 印刷ページ表示

大和の大王と葛城の豪族

(1)狐井城山古墳と葛城の豪族

(2)顕宗・武烈両陵のこと

(3)須恵器と古代瓦の窯跡

 平野の堂山周辺の北向き斜面で、六世紀後半の須恵器の窯跡が発見され、昭和四十九年にその確認のための試掘調査が実施された。
 本来須恵器は、大陸伝来の登窯で焼成する硬質の土器で、素焼きの技術しか知らなかった日本人には画期的なものであった。
 当然その新技術は、朝鮮半島から日本に渡来してきた陶工たちが導入し、彼等が中心となって次第に各地に広められた。
 そして、その窯は寺院などの屋根瓦を焼くためにも使用されるようになった。
 昭和五十八年、香芝白鳳台の土地区画整理事業の施工に先だって、公園緑地として保存される二つの窯跡を除いて、造成のため破壊される一号窯の本格的な発掘調査が行なわれた。
 この調査中に、道路の敷設によって削られた北側の斜面で二基の窯跡が発見され、合計五基の窯が確認された。
 これらの窯跡は、自然の風力を利用するために北向きの斜面を利用して作られていた。
 トンネル状に地下に掘り込んだ登窯と呼ばれるもので、須恵器や瓦を焼く焼成室が登り勾配に作られ、焼成室の一番奥の部分から細長い煙道が地上に通じている。
 一方、窯の最下段には薪を入れる焚口があり、その奥にある燃焼室で燃された火気が、焼成室から煙道の方へ上昇していく構造になっていた。
 平野一号窯の場合、窯の上面が削られて天井にあたる部分がなく、煙道と焚口、灰原も大きく欠損していたが、遺存する部分の全長が約八メートルもあった。
 そして、焼成部の床面には、最終回のものと考えられる須恵器片が遺存していた。
 また、北側の四号と五号窯のうち、五号窯は地下式有段の登窯で布目の平瓦と丸瓦が出土した。
 一号窯の遺物の須恵器は、近郷の古墳から出土するものの中に姉妹品があると思われ、五号窯の古瓦は、瓦当部分が一点もなく、どの寺に供給した窯なのか明確にできない。
 しかし、近くに尼寺の古瓦出土地があり、その特需のために築かれた窯跡の可能性が高い。
 葛下郡の片岡や上牧には窯跡が多く遺存する。
 上牧町下牧の谷間で発掘調査された半地下式の有段登窯は、奈良時代の瓦窯跡であることが確認され、上牧の井戸尻や大谷でも布目瓦の地表に散布するところがある。
 更に香芝市内でも平野の杵築神社の境内に、藁スサの混入した焼土や古瓦片の出土する遺跡があり、瓦窯跡の可能性が高いと思われる。
 この地方に多くの瓦窯跡が存在する背景には、片岡尼寺(般若尼寺)・片岡僧寺(放光寺)・西安寺・加守廃寺など、仏教文化が開花した頃の寺跡が多く、これらの寺院の造立や補修に大量の瓦を必要としたことが考えられる。

(4)二上山麓の石切り場の遺構

(5)後期の古墳