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幕藩体制の確立と近世社会の展開

ページID:0007594 更新日:2021年12月13日更新 印刷ページ表示

 日本史で近世と呼ばれる江戸時代は、封建制度の確立した後期封建社会ともいい、徳川の将軍家とその将軍から所領を与えられた大名たちが、絶大な権力を背景に領民を支配した時代であった。
 織田信長から豊臣秀吉に引き継がれた天下統一の事業は、徳川家康によって完成され、江戸幕府の将軍専制の政治体制が整えられていった。
 幕府は江戸を中心に全国総石高の約四分の一の天領と軍事・経済上の要地を支配し、「武家諸法度」を制定して大名など武士階級を統制する。
 一方、武士のほかに農民・町民(工・商)・賎民(穢多・非人)などの身分階級を作り、父権の強い家父長的な家族制度を取り入れて、身分の上下や主従関係を重視したものであった。
 それは民衆を分裂支配する封建的な秩をうちたて、この体制を一日も長く維持することによって、徳川の天下を守るためだった。
 こうして出発した近世封建社会は、十八世紀のはじめ、元禄時代ごろから貨幣経済が発達し、幕府・大名の財政を圧迫するようになった。
 もともと、その財政を支えていたのは、貢租課役を負担していた農民であった。
 しかし、貨幣経済が農村にも波及してくると、金肥の使用や農民の副業などが進み、農村の窮乏や農民層の分解が始まって、各地に百姓一揆が起き、農民の上にたつ武士階級の生活まで困難にしていった。
 八代将軍吉宗の享保の改革(十八世紀の前半)、松平定信の寛政の改革(十八世紀末)・水野忠邦の天保の改革(十九世紀前半)の三回の幕府の政治改革は、この武士階級の困窮を救うためのものであった。
 しかし、幕府はついに彼等の生活を回復することができず、財力をもった町人や地主階級の台頭を許してしまった。
 幕末になると、開国の問題を契機にして尊皇攘夷の運動が起き、西南雄藩の下級武士、豪商・地主などによって、倒幕の運動が進められる。
 そして、慶応三(一八六七)年、江戸幕府十五代将軍慶喜の、大政奉還によって、二百六十余年間の徳川氏の天下は終わる。
 この幕藩体制下の香芝市では、天領、藩領、旗本領など村々の支配に同異があっても、封建的な武家の支配に変わりはなかった。
 例えば、文政年間には、逢坂と穴虫の一部が小室藩(小堀氏)領、鎌田が壬生藩(鳥井氏)領、別所・瓦口が旗本水野石見守の所領で、他の多くの村々は郡山藩(柳沢氏)の支配下におかれていた。
 そして、村政の実務は、領主に協力する村々の庄屋の責任として処理された。
 一般の農家は、江戸時代初期に米作り中心であったが、貨幣経済が発達してくると、年貢も銀納が認められ、現金収入の多い綿花、菜種、たばこなど商品作物を作るようになった。
 そうなると、この地方にも都市の町人の資本が流入して、副業的な綿織物の商人や油屋・酒屋など商工業を営むものが現れ、しだいに専業化して村内の新しい富豪に成長する。
 この富豪や大高持百姓に対して、日々の生活に困り幼児の間引きや離村していく小前百姓(零細農民)も少なくなく、村方を大きくゆり動かすような騒動が相次ぎ、武家政治はその終末を迎えるのであった。

(1)大和検地と刀狩り

(2)新しい武士の支配と農民の生活

(3)近世の村とその変遷

(4)村々の政治とその仕組み

(5)貨幣経済の発達と農村の変化

(6)おかげ参りの流行と送迎の太神宮

(7)農民の娯楽と旅行

(8)天災による飢饉と幕末の世相

(9)村方騒動の頻発

(10)倒幕運動と村々の動き