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幕末が近づくにつれて各地の村々では、大地主や新興の高利貸し商人が貧農の田地を手に入れて寄生地主となり、小作料だけで生活できる富豪になるものがあった。
その反面、稲小屋や物置に居住して小作生活する零細農民ができ、農民の中での階層分化が急速に進展する。
こうした農村社会の変化に伴って、村内の共同生活でも世襲的な村方役人層に対する村民の反撥が表面化し、村びとの新しい動きが各地でみられる。
穴虫村では、安永五(一七七九)年の正月、古百姓と呼ばれる人たちの旧来の村座に対抗して「けいちん座」と称する新座が組織される。
旧村座に属する村役人は、新座に解散を命じ、領主小堀氏もこれを支持して解決する。
しかし、文政五(一八二二)年、座衆と非座衆の婚約問題から話は再燃し、非座衆は新しい座屋を立て、村座の支配する村から独立することを願い出、領主により新村の「高分け」が許された。
逢坂村の場合は、嘉永五(一八五二)年、村方の入用銀がかさむため、村方組頭や穴虫村方の入作者が立ち合いで調査したところ、庄屋に取り込みがあったことが問題になり、庄屋が出銀して事件は穏便に処理された。
しかし、七年後の安政五年には、村方勘定の諸帳簿が点検され、十数件の取り込みがあると庄屋を代官所に訴え、ついに庄屋を引退させ銀六貫余を弁済させている。
また、嘉永六(一八五三)年には、磯壁村の大庄屋や庄屋の銀子取り込みの訴えが藩役人に出され、上里村では、文久三(一八六二)年、中筋村からの入作者が年貢割付諸帳簿の公開を求め容れられている。
一方、安政三(一八五六)年には、五ヶ所村で村人の要求に応じ庄屋の隔年交代制が実施されている。
特に幕末には、相つぐ天災による凶作で、米価をはじめ諸物価が高騰し、小前百姓の生活苦は一層深刻になった。
同時に村々の諸経費の増加と絡んで村方役人の銀子取り込みといった不正も表面化する。
こんな村方役人に対する小作農民の不信感が、諸帳簿被見要求から村方騒動にいたる動きとなって現れた。
そして、こうした村方騒動は、新しい世の中の出現を願う、小農民たちの闘いであったともいえる。