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近世の初頭、農民の自給生活をもとにしていた経済の仕組みが、幕府の金座・銀座などで作られた金・銀・銭貨の流通と藩札の発行によって、村方にも貨幣による交換経済が浸透してきた。
そして、年貢を銀納するため米の換銀を必要としたことが、現金収入を多くする商品作物の栽培に着目させ、この商品作物の栽培の普及によって新しい地方産業の発達をうながした。
こうした貨幣経済は、五代将軍綱吉の元禄時代に全国に及んだ。
そのころ、香芝市には、伝統産業の金剛砂の採掘と鋳物工業が全国的な特産として存在し、加えて、搾油・酒造・綿織物などの工業が発達してくる。
搾油は、菜種や綿実を原料として灯油・食料油を生産する仕事で、大和では主に京都で消費される灯油を供給するため、株仲間の組織が認められた。
株仲間は冥加金を幕府に納める条件で、独占的な営業の特権が与えられていた。
天保十三(一八四三)年、幕府の命令により株仲間が解散させられる天保の改革以前には、絞油業者で人力株と水車株を合わせて下田村に四軒、磯壁村・五位堂・北今市村の各村に一軒ずつの油屋が公認されており、解散後は更に業者が増加している。
酒造業については、酒運上銀を幕府に納入して、鑑札の交付を受けた者に限って営業が許された。
享保九(一七二四)年には、五位堂・磯壁・五ヶ所・今泉の各村に酒屋が一軒づつ存在し、油屋とならんで農村における新しい事業家の成立がうかがえる。
また、農村の女子の副業には、農閑期や夜なべの木綿織りの稼ぎがあった。
この綿織物の織機の貸付けと繰綿(原料)の需給、製品の仲買・販売にあたる新しい商人も出現してきた。
こうした、油屋・酒屋・木綿屋などの新興産業の事業主は、当時の富豪といってよい大地主や庄屋に多かった。
そして、彼等を中心に新しい貨幣経済が農村に進展していく。
その結果、生産力のない貧農は、旱魃や風水害などの自然の災害に弱く、災害のたびに襲ってくる物価高といった経済変動のため農地を失って没落していくものが現れた。
農村に間引きや離村の現象が現れたのもこのころであった。
幕府は、農民の離村を取締り「人返し」と称して帰村を奨め、荒廃した農村の復旧を企てるが、新しい経済の流れにさからえきれず幕藩体制は崩壊していくことになる