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文久三(一八六三)年八月、尊皇攘夷派の中山忠光卿と土佐の吉村寅太郎・備前の藤本鉄石、三河の松本庵堂らは、幕府の五条代官所を襲い、代官の鈴木源内らを殺害して、世にいう天誅組の事件をおこし、倒幕運動の先駆となった。
彼等は、各方面から参加する国士や十津川郷士の協力を期待し、大和で江戸幕府天誅の義旗をあげた。
ところが、その翌日、長州藩を中心とする攘夷派は、公武合体派の薩摩・会津に京都を制圧され、天皇の大和行幸が中止となる政変が起き、その名分を失った。
そのため、天誅組は近隣諸藩の軍勢の追及を受け、五条を脱出して十津川・北山・川上郷を敗走、組織した兵力が潰滅してしまった。
天誅組追討の命令は、郡山藩を中心に高取など大和の諸藩と彦根・紀州・津藩にも出され、郡山領内の上里村には『文久三癸亥年八月十八日天中組ニ付御地頭様御用夫人足帳』と題された天誅組関係の村方の記録が残されている。
この記録によると、村民のなかから追討軍の松明持ち人足として戦場にかり出された者、藩と村の連絡役や藩の雑用に使役された者など、延二百四十日の人足が割り当られている。
また、その費用九百六十匁のうち八百九十匁が藩から支払われ、残り七十匁は村から支出、村人が負担している。
元治元(一八六四)年江戸詰の諸大名が国元に帰り、第一回長州征伐や翌年の第二回長州征伐によって幕府の無力化がはっきりすると、次第に世上は騒がしさを増してきた。
このころ、大和の諸藩は、大阪湾に出入りする外国船に備えて出兵し、前記上里村では、京都・向日町・関屋峠・国分・安治川などへ、しばしば人足として動員されている。
こうした村方農民への負担の重さは、他の村々でも大同小異であって、社会不安とともに政治への民衆の支持を失うものであった。
その意味では、薩摩・長州の倒幕運動は時流にのった動きであり「ええじゃないか」の乱舞は民衆の政治不信の現れだったともいえる。
民衆が新しい世直しを期待して、昼夜の別なく踊りまくり、信仰に擬装して不満を爆発させていく中で、江戸幕府は倒壊し、明治の維新政府が発足する。