本文
江戸幕府は、将軍家を中心に少数の武士による全国支配を安定したものにするため、秀吉の行った「検地」や「刀狩り」を土台に兵農分離をおしすすめ、士・農・工・商など身分による差別を厳しくした。
なかでも年貢を負担する農民を工・商などの町民の上に置き、更に町人の下に穢多・非人の賎民階級を作り、農民の不満をそらせる分裂支配の政策をとった。
こうした幕藩体制下の香芝市の村々は、時代によって支配者に変遷がみられるが、幕府の天領と郡山藩などの大名領にわかれていた。
そして、農民は親子代々耕作する土地から離れることが許されず、「郷村の百姓共は死なぬ様に生きぬ様にと合点いたし、収納申し付ける様」(『昌平夜話』)、「百姓と胡麻の油はしぼればしぼるほど出る」(『西域物語』)、といわれたように武士階級を経済的に支える年貢の負担者として働かされた。
領主や代官は、毎年の年貢を確保するために、農民に対していろいろな制限や干渉も加えている。
例えば耕地が細分化して年貢を負担する力のない農民(田分け者)が増加しないよう、幕府は「田畑永代売買禁止令」・「分地制限令」を出して土地もちの本百姓を確保した。
日常生活でも最低の生活を維持して多くの課役に応じられるよう、衣類は木綿の着物に制限し、みだりに米を食べないで雑穀を食べさせ酒・茶・たばこなどを禁ずる「覚書」や「触書」を出している。
幕府は本途物成と呼ばれた年貢量の決定について、江戸時代初期には「検見法」によっていたが、享保六(一七二一)年以降は「定免法」に変更する。
初期の「検見法」では、作柄を調べ坪刈りして全体の収穫高を見積もるため、実際に近い収穫量をもとにした現実的な課税であった。
ところが、後期になって採用された「定免法」は、何年かの平均収穫量をもとに一定の課税高が決められ、豊凶にかかわりなく年貢がとりたてられるので、凶作の年には農民が保有米すら残せないこともあった。
このような農民に対してあくまで貢納の責任を果たさせるため、最寄りの五軒の家を組み合わせて、「五人組」の制度を作り、この五人組の人たちに連帯して責任をもたせる方法で、武士はその支配の徹底を期していた。