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幕府や大名など領主側の役人であった郡代・代官には、その家臣団の中の武士が任命された。
そして村方の三役との間に、大庄屋の制度が設けられるのが一般的であった。
大庄屋は、およそ十ヵ村の庄屋(名主)を組下に置き、領主に従って「触」や「達」を領民に伝え、苗字帯刀が許されて組下各村の監督にあたった。
村々の庄屋は、村の責任者として村民を代表し、村民の行為に対しても連帯して責任を負っていた。
同時に実務面では、年貢の割り付けと徴収、水利土木に関する仕事の処理から、宗門改め・宗旨送りなど戸籍に関すること、風紀・消防・衛生など警察的な治安に関すること、訴訟の仲裁・各種の証明など村政の全般にかかわっていた。
庄屋とともに村方三役と呼ばれた年寄(組頭)、百姓代は、すべて高持ち(田地持ち)の百姓から選ばれ、年寄は庄屋の仕事を補佐した助役のようなもので、百姓代は村民に代わって庄屋の仕事を監視する役目をもっていた。
とくに郡山藩の領内では、天保四(一八三三)年、『庄屋勤方心得書帳』…(『町史』参照)を下達している。
その中には、
一、米の刈り入れから皆納まで、米穀を取散させぬよう取締り、免状が令達されれば、村役人とよく打合せ、村高に準じて不公平なく免割し、期限内に皆済する。
一、宗旨については、村民の人別を改め、隔年に取調帳を大庄屋に提出する。
一、五人組並びに高改めの場合隔年帳面を作成、五人組の箇条は村民の末々まで読み聞かせ調印のうえ大庄屋に提出する。
一、非法のものがないように精々取り締まる。
など、十二箇条の庄屋心得が記されている。
各村々には、『検地帳』に所有地とその石高が記載されている本百姓と、土地を所有していない水呑(無高)百姓がいて、本百姓が村政の中心になった。
また、全戸を網羅して組織された五人組は、相互に連帯する扶助と検察の両面の働きが義務づけられ、巧みに支配者に利用されて、支配者の意のままに統制された。
一方、地縁的な垣内や講の組織があって、冠婚葬祭や宗教行事を通して、村内の人びとは強く結ばれていた。
今日、当時の政治のしくみは変わっても、その慣習は村々の中に残されている。