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(6)おかげ参りの流行と送迎の太神宮

ページID:0007566 更新日:2021年12月13日更新 印刷ページ表示

幕藩体制の確立と近世社会の展開

(1)大和検地と刀狩り

(2)新しい武士の支配と農民の生活

(3)近世の村とその変遷

(4)村々の政治とその仕組み

(5)貨幣経済の発達と農村の変化

(6)おかげ参りの流行と送迎の太神宮

 伊勢への参宮は、五穀の豊穣を祈願して参拝し、榊をいただいて帰る。
 こんな参宮の風習は伊勢講の出現によって、急速に庶民の間に広まった。
 この榊をいただく参詣を「おかげ参り」といい、慶安年間ごろから全国的に波及し、多いときには白衣の軽装で箱根の関を二千人も通ったといわれる。
 宝永二(一七〇五)年のおかげ参りでは、五十日間に三百五十万に達したことが、本居宣長の『玉かつま』に記されている。
 次いで、明和八(一八八一)年、文政十三(一八三〇)年、慶応三(一八六六)年にも、爆発的な伊勢参りの風習が流行したと当時の記録に残されている。
 播磨・摂津・河内・和泉などの諸国から伊勢に向かう老若男女の列は、この地方の諸街道を通って伊勢街道へと送りこまれた。
 伝承によると、当時の伊勢への街道筋は、すれ違いも困難なほどの雑踏状態で、村人がいろいろな施し物を参詣人に送り、太神宮燈籠を村の入口に建てて通行の安全を気づかうなど、熱狂的な流行を支持したという。
 ところが、文政十三年七月十八日、「畠田に御幣が天下り給うた」とも、「西山手日るめ畑田亀山江伊勢大神宮御手被成候…」とも言いだし、九月には社殿が建立されたという。
 橿原市山之坊町『吉川家文書』によると、内宮を「送迎太神宮」、外宮を「亀山太神宮」と号し、大阪より石の鳥居が寄附され、天岩戸もこしらえられて、伊勢神宮さながらの神城が造成されたようである。
 そして、翌年の五月、領主柳沢家から焼き捨て処分されるまでの約一年間、「…依之日々参詣弥増ニ相成申候、御影踊何れも日るめ江踊込申候…」と書かれている如く、近郷近在から毎日畠田参りが続いたという。
 こうして、爆発的な伊勢参りとともに、畠田村の太神宮詣でが、武家政権下の民衆の間に広まって、深いわけもなくうかれ踊り狂ったのである。
 このことは、単に物見遊山的行楽や平素の領主や代官の圧政に対するうさばらしだけでなく、他地方の人びとと交流する中で新しい民衆の時代をつくり出していく、多くの人びとのエネルギーの表現であったとも考えられる。

(7)農民の娯楽と旅行

(8)天災による飢饉と幕末の世相

(9)村方騒動の頻発

(10)倒幕運動と村々の動き