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(8)天災による飢饉と幕末の世相

ページID:0007575 更新日:2021年12月13日更新 印刷ページ表示

幕藩体制の確立と近世社会の展開

(1)大和検地と刀狩り

(2)新しい武士の支配と農民の生活

(3)近世の村とその変遷

(4)村々の政治とその仕組み

(5)貨幣経済の発達と農村の変化

(6)おかげ参りの流行と送迎の太神宮

(7)農民の娯楽と旅行

(8)天災による飢饉と幕末の世相

 幕末の農村の荒廃は、貨幣経済の発達にもその原因はあるが、自然の災害による飢饉の続発が大きな要素であった。
 とくに、江戸時代の後半には、旱害・水害・風害・虫害などによる凶作が目立って多くなる。
 この地方でも、天明元(一七八一)年と翌二年、及び、天明六年と翌七年の夏には、続いて風水害が発生して凶作が相次ぎ、多数の餓死者を出したと伝えられている。
 天明七年六月十六日の郡山藩主柳沢保光の記録によると、「昨夜郡山下田村の民家へ多数来りて、門戸を厳しく打ちたたきしによりて、早鐘を撞て、ふせきの人数をあつめしかは大方は逃げ去りしが、五十人ほどのこりし一揆等米穀を出し買して去りぬ。
 また、今夜狐井村、長尾村、南今市村の民家へも多人数来りて米穀等猥に奪取去りしよし申出によりて…」とあり、下田村、狐井村で富豪の米倉が襲われたことを知ることができる。
 また、天保七(一八三六)年、別所村の村役人たちが領主の旗本水野氏に対して、「乍恐追訴御願奉申候」と歎願している文書には、大要「村内の百姓のなかに飢饉のため餓死するものが出るので、それぞれの用意している飯米を分け与えて助け合っている。
 もう貯えもなくなり共に餓死するようになったので、極く難儀している者に米百石を貸してほしい」と訴えている。
 その翌年の天保八年には、大阪町奉行所の与力(役人)であった大塩平八郎が、民衆を動員して富豪の倉庫を襲撃し、金穀を奪う暴動を起こしている。
 更に、市内の各村々の旧家に残されている古文書によると、弘化二(一八四五)年の冷害と風水害、嘉永元(一八四八)年の洪水による葛下川の決壊、文久二(一八六二)年の風水害、嘉永二(一八四九)年の浮塵子の大発生、嘉永六年夏の八十日間に及ぶ日照り続きの大旱魃、翌安政元年の二度にわたる大地震等々、自然の災害が相次いで農民を苦しめる。
 とくに、天災が起きるたびに大きな被害を受け苦労した人たちは、日ごろから生活に余裕のない小前百姓(零細農民)であった。
 彼等は村方の諸費増額に絡んで、村役人の銀子取り込みの不正を問題にし、村方帳簿の公表を求めて村役人と対立、庄屋を退陣させるような村方騒動までおこしている。

(9)村方騒動の頻発

(10)倒幕運動と村々の動き