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江戸時代の幕藩体制に基づく中央集権の後期封建社会は、豊臣秀吉の行った検地・刀狩り・人掃令など、一連の政策が基礎になっている。
戦国時代末期の天正年間、京都に進出してきた織田信長と手を結んだ大和武士の雄、筒井順慶は、信長から大和一国の支配をゆだねられ、郡山城を修築して一国の城主となった。
ところが大和は古来より寺社の勢力が強く、その支配下で成長した武士団の衆徒・国民を支配するためには、外部から徹底的に制圧する必要があった。
そのため信長は、明智光秀・滝川一益らを大和に遣わして、寺社や国衆(武士)に所領を申告させる「指出し」を命じ、松永久秀に組した高田藤七郎・岡弥三郎らを処分した。
このとき動揺のあった岡氏の城下へ滝川の軍勢が進駐してきたことを、奈良の多聞院英俊という人がその日記に書いており、この政変が大和ではいかに重大でかつ深刻であったかを
伝えている。
その後、信長は本能寺の変に倒れ、秀吉が天下統一の事業を受け継ぐ。
そのとき問題の多かった大和には、異父弟の豊臣秀長や五奉行の一人益田長盛を郡山城に入部させ、強力に弾圧する政策を実行する。
この間天正十三(一五八五)年八月には、多武峯の僧徒に武器の提出を命じ、武装解除を強行し、寺社の武力反抗の防止に着手している。
このことが三年後の全国的な「刀狩り令」に発展し、兵農を分離して武家政権の長期安定化に役立つのである。
また文禄四(一五九五)年、秀吉はさきに信長が大和武士に命じた「指出し」を全国的に徹底するため、調査の役人を現地に派遣して、村単位に田畑や屋敷の面積を測り、その土地の等級・収穫高・耕作者など詳しく調べる全国検地を始める。
この「検地」の実施によって、全国の村高が算出され、領国大名制の基礎が作られた。
香芝市では、このときの検地帳写しが、瓦口の池原家に残されている。
更に天正十九(一五九一)年、「人掃令」が出されて全国の人口が調査され、武士・百姓・町人を別ける「身分統制令」によって、近世の封建的支配者にとって都合のよい政治の仕組みをつくりだしていった。