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軍部の台頭と戦時下のくらし

ページID:0007586 更新日:2021年12月13日更新 印刷ページ表示

 日本は大正末期から昭和初頭にかけて、中国に対し米英と協調しての内政不干渉の立場をとっていたが、これを批判する軍部では、山東出兵や張作霖の爆殺事件を起こし、徐々に中国侵略の方向をたどり、満州一帯の軍事行動を拡大して満州国の建国を強行した。
 一方、国内のインフレと膨脹した財政経済を改善するため、浜口内閣は昭和五(一九三○)年一月に金解禁を実施した。
 第一次世界大戦中から禁止していた金の輸出を解き、我が国の経済が世界の市場で競争できる方向をめざした政策であった。
 ところが、前年の十月にアメリカに起きた経済恐慌が全世界に広がっていたため、日本の金解禁は、外国から安い商品を流入させる結果となり、国内の物価が急落して中小企業を圧迫し、農村の不況は深刻となった。
 昭和六年十二月、犬養内閣はこの経済恐慌に対応するため、金の輸出を再度禁止することになった。
 その結果、円相場が下落して輸出が飛躍的に増加し、満州事変の勃発による軍需の拡大と相まって産業界の活況は回復した。
 とくに、綿製品の輸出急増は、先進国イギリスとの厳しい対立を招き、新しい市場獲得競争が始まった。
 昭和十二(一九三七)年七月、遂に、北京郊外の蘆溝橋で日中両軍が衝突し、政府の戦争不拡大方針に反して、軍部は強硬に戦場を拡大して収拾できない日中間の長期戦争へと発展した。
 国内では急速に戦時体制が整えられ、軍人の召集はもとより労働者の軍事工場への徴用や衣料・食料など生活必需品の配給制の実施等々、国民あげての総力戦体制が強化されていった。
 日中戦争の長期化する中で、ヨーロッパではポーランドに侵入したドイツ軍に対して、イギリス・フランスが宣戦を布告し、ドイツとソビエトの間にも戦争が拡大して、第二次世界大戦へと発展した。
 昭和十六(一九四一)年十二月八日、日本海軍のハワイ真珠湾奇襲攻撃によって太平洋戦争が始まり、ヨーロッパの戦場とともに世界的な大戦争になった。
 日本はアメリカ・イギリス・オランダなど連合国側に対抗して、ドイツ・イタリアと結ぶ枢軸国の陣営に入って世界的大戦争の渦の中にたった。
 しかし、生産力や軍事力の低さは、戦争が長期化するにしたがって戦局に不利となり、連合国のポツダム宣言を受諾して無条件降伏することになる。
 かくして、戦争という理由で日用品や食糧の不足に耐え、アメリカ空軍の機銃掃射を体験した人びとにとって、期待に反する敗戦という結果で長期戦争の幕が閉ざされた。

(1)経済恐慌と農村の変化

(2)不況下の村政

(3)日中・太平洋戦争と村政

(4)戦時下の村民生活