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(1)経済恐慌と農村の変化

ページID:0007518 更新日:2021年12月13日更新 印刷ページ表示

軍部の台頭と戦時下のくらし

(1)経済恐慌と農村の変化

 第一次世界大戦による我が国の好況は、戦時特需の消滅した大正の末期から一転して不況となり、立ち直る気配をみせず慢性化する傾向にあった。
 そして、昭和二(一九二七)年の金融恐慌などの余波を受けて農産物価は下落し、そのうえ好況時に都市の工場労働者となって失業した一族をかかえ、農家の経済は極度に緊迫の度を加えていった。
 この農業不況に対処するために、政府は、農山村経済更生計画をはじめいくつかの農村救済政策を打ち出した。
 五位堂村と志都美村では、小作農家を自作化して安定した中農層を作るため、政府の自作農創設維持資金を借り入れることを議決している。
 また、五位堂村では、困窮した農民を救済するための土木事業として、鎌田~今在家間の道路改修工事(昭和二年)、五位堂~良福寺間の道路整備工事(同四年)が実施された。
 しかし、政府の資金で行う救農事業は、三年間で打ち切られ、各村が経済更生事業を独自に進めなければならなくなった。
 この頃、現在の農業協同組合のもととなった産業組合が各村に創設され、農民生活の維持・発展をめざして、信用(金融)、販売・購買(農産物の販売と消費財購入の共同化)、利用(施設設備の共同利用)など、農民の共同化が進められた。
 第一次世界大戦をピークに農家の現金収入に大きな比重を占めていた養蚕業は、人絹糸の影響で繭価が下落し、次第に衰退の道をたどっていく。
 それに伴って各村々では、米・麦に加え換金性の高い果樹や蔬菜などの園芸作物が取り入れられ、農家の収益向上が図られている。
 良福寺・鎌田の力西瓜、尼寺付近の志西瓜が大阪・神戸・東京へ出荷され、柿・ぶどう・みかんなど果樹も栽培されるようになった。
 それを大八車で下田駅まで運んで汽車で出荷したり、トラックで輸送したりしていたことが今も伝えられている。
 しかし、日中戦争から太平洋戦争に発展する頃には、食糧増産のため養蚕業は壊滅し、果樹や蔬菜の園芸作物の栽培も、次第にその光景が見られなくなった。

(2)不況下の村政

(3)日中・太平洋戦争と村政

(4)戦時下の村民生活