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昭和のはじめに全世界を襲った経済恐慌の嵐は、日本の政界や財界にとって、尋常の策では克服しがたい課題となっていた。
そのために、国外の市場を確保しようとする財界の要望と結びついた軍部の大陸進攻の画策は、満州事変(一九三一)年をきっかけにして、なし崩し的に大戦争への道を進む。
昭和十二(一九三七)年七月七日、北京郊外の蘆溝橋での武力衝突が導火線となって、日中間に戦争が始まった。
戦争の勃発とともに各村役場では、銃後の務めとして、出征兵士の家族の援護活動、勤倹貯蓄の奨励と国債や献金の消化など、村民が戦争に協力する運動を展開することになる。
そして、各村は全国的な大政翼賛会の結成と相まって、消防組を民兵的な警防団に改組し、村会に代わる村常会を設置して、町内会・隣組など上意下達の下部組織を強化する。
こうして戦争遂行にむけ、村民の総動員態勢が作られていった。
昭和十六(一九四一)年十二月八日、日本軍は長期戦に備える戦略物資調達のため、南方方面へ戦場を拡大する。
当然、日本軍の侵略を阻止しようとして経済封鎖策をとる強国のアメリカ、イギリス、オランダとも戦争状態になり、太平洋戦争が始まる。
翌年、奈良県では高田に葛城地方事務所を設置する。
政府の訓令や通達などを迅速に各町村に伝達し、軍事優先の政治統制を強化するためである。
村役場の行政は、生活必需品の配給や戦時公債の消化、徴兵をはじめ徴用や女子挺身隊・勤労報国隊などの動員事務等の国策を政府―県―地方事務所の指導のもとに進めていった。
とくに、挙国一致や大政翼賛会の名のもとに結成された村常会は、村会議員、各種団体の責任者、学識経験者などから選任された参与が集まって、村議会に代わる審議機関として重視された。
そして、役場・農会・産業組合・翼賛会などから提出される議案を審議し、戦時下村政の全般にわたる重要方針を決定すると同時に、生産、配給などの実権までもつようになった。
もちろん、各村々の財政面は、通常の一般経費のほか戦時特別費、時局費、警防費など戦時歳出が増加し、村民の租税負担がますます高まる一方であった。
そのうえ強制的な貯蓄と戦時国債や戦費献金の割当てのために、村民の家計は困窮し、日々の生活にさえ不安を感ずる人びとも現れてきた。