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江戸時代の村は、今日の大字がほぼそれにあたる。
享保二十一(一七三六)年に書かれた『大和志』には、現在の香芝市に平野・今泉・中筋・高・上里・今市・田尻・関屋・逢坂・穴虫・畑・磯壁・良福寺・狐井・下田・五ヵ所・瓦口・五位堂・別所・鎌田があったと記録されている。
これらの村名を、徳川政権の成立した関ヶ原戦直後の慶長十(一六〇五)年から元和元(一六一五)年ごろの資料と比較すると、今泉(西)・中筋・高・今市(北今市)・田尻・五ヵ所の六村が新しく生まれたことになっている。
なかでも、今泉・中筋・高・今市の各村は、地域的に接近していて、慶長・元和年間に上里村と称し、村高二千石を越える大村であった。
この大和屈指の大村上里村から、上記の四村は分離独立した新村のようである。
確実な高分けの時期が不明であるが、恐らく、郡山藩の治下に入ってからではないかと推定される。
慶安三(一六五〇)年の古文書には、中筋・今市・高・西村の名がみえ、その後、中筋村から上里村が旧名を用いて分離し、西村も今泉と改称、今市村も同じ郡内の南今市村と区別するため、享保ごろから北今市村を称するようになる。
この分村の経緯について、正確な年代等は今後古文書によって明らかにされることを期待したい。
なお、現在の上中は、明治になって上里と中筋が合併して成立したものである。
田尻村は、万治二(一六五九)年の文書にその名がみえ、関屋村の支郷と書かれた文書もあるので、関屋村から分離独立したと考えてよい。
また五ヵ所村もその頃下田村から分村して独立たようである。
約二世紀半にわたる江戸幕府の統治下で、これら村々の支配は、大名統制の手段とされた加禄・減村を伴う改易によって、ときにその支配者を変えながら明治まで封建的な幕藩体制下におかれる。
そして、明治二十一(一八八八)年の町村制実施によって、二上・下田・五位堂・志都美の近代の各村が生まれ、近世の村々はその大字名として現在まで受け継がれている。