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香芝市では、五世紀の中頃までに造られたとされる前期・中期古墳がきわめて少なく、前期の別所城山古墳、中期と思われる別所の石塚古墳や土山古墳も、その規模は小さい。
しかし、葛城地方でも、広大な耕地に恵まれている馬見や御所地方には、巨大な中期の古墳が数多く散在する。
それは、五世紀中頃までのこの地方の豪族の本拠が、そこにあったからだと考えてよい。
ところが、六世紀の初頭頃になって、本市内にも中期の巨大古墳の流れを受け継いだ狐井城山古墳のような大きな古墳が造られる。
狐井城山古墳は、全長が百四十メートル、後円部の径九十メートル、前方部の幅百十メートルもある大形の前方後円墳で、十八メートルに及ぶ濠が幅広い外 堤にとり囲まれ、今日なお満々と水をたたえている。
四世紀前半までに奈良盆地東部の地方に成立した大和政権は、中部地方以西の統一を進め、四世紀末に遠く朝鮮半島にまで進出したとされている。
そのため大王の政権は、河内にその本拠を移さなければならなかった。
しかし、奈良盆地の西南の葛城地方は、葛城氏とその一族によって占拠されていて、ここを通過するのに大きな問題があったと考えねばならない。
『古事記』や『日本書紀』によると、仁徳天皇のころ内外の政治・外交面で活躍した人に、葛城襲津彦というこの地方の古代豪族の名前が出てくる。
この葛城襲津彦の娘に磐之媛という人がいて、仁徳天皇はこの磐之媛を皇后にして葛城氏と外戚関係を結び、襲津彦とその一族を重く用いたのである。
磐之媛は履中・反正・允恭三帝の母となり、中国の『宋書』倭国伝にみえる倭の五王の時代に、政治面でも大きな影響をもっていたと考えられる。
当然、葛城襲津彦は三帝の外祖父として権力をほしいままにして、葛城氏は全盛期をむかえたと思う。
朝鮮半島に進出していた大和政権は、六世紀中頃になって、任那の経営を放棄して半島から引き揚げざるを得なくなる。
もうその頃には、葛城氏一族に昔日の権勢はなくなっていた。
しかし、襲津彦の子、葦田宿禰や玉田宿禰の子孫が、朝統に関係して葛城氏の権勢は維持されている。
なかでも、葦田宿禰の孫娘荑媛と玉田宿禰の孫娘韓媛に注目したい。
特に荑媛は履中帝の皇子、市辺押磐皇子の妃となり、仁賢・顕宗両帝の母、武烈帝の祖母となって、葛城氏一族の権勢に大きく影響している。
被葬者の特定はできないが、この頃の築造と思われる狐井城山古墳の主はこの時期に活躍していた葛城氏の葦田宿禰に関係がある有力者ではないかと私は考える。
同時に、御所や馬見方面を本拠にしていた葛城氏が、その勢力を西北の新庄から香芝に伸長してきたのもこの少し前頃だと思っている。