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上牧町の「観音山」(俗称さね山)は、葛下川沿いの香芝市高、上中、北今市などの集落を眼下に見下ろす位置にある。
この観音山から、江戸時代の文化年間のはじめ、小形袈裟襷文の系統に属する銅鐸が出土している。
銅鐸は現在、静岡市立の登呂博物館に保存されているが、上牧村で発見され京都から静岡へと移っていった由来が『宝鐸獲之記』として箱書きされ、出土地確認の手がかりとなった。
日本の銅鐸は、近畿地方を中心に発見される国産の青銅器で、弥生時代の村落共同体がその集団の祭祀に用いた遺産でないかといわれている。
当時、舶来の貴重品であった青銅を使って鋳造した宝器ともいえる銅鐸が、この葛下川沿いの地から出土したのは、この地域にも有力な農耕集落が形成されていたからだと考えられる。
古来、上牧や下牧の地名は、牛馬を放牧していた牧場に由来するとみられ、農耕には不適な丘陵地帯が中心だったと思われる。
観音山は現在、上牧領になっているが、弥生時代には、むしろ、香芝市側に耕地をもっていた集落の生活圏だったとみられる。
そして、出土した銅鐸を所有していた弥生人は、周辺の弥生遺跡に居住していたと考えて間違いない。
とはいえ、この観音山周辺の弥生遺跡は、下田東字「わたんど」の弥生時代に属する柳葉形の石鏃出土地と南上牧の土器散布地ぐらいで、まだ明確に弥生の集落があったと断定されたものではない。
しかし、この付近の葛下川は、今日の流路より、もっと左右両方に蛇行して流れていた可能性があり、法楽寺の付近から「わたんど」や南上牧の一帯に、弥生時代の遺跡が埋没していることも予想できる。
そして、各地の銅鐸埋納地に共通的な観音山の上で、この銅鐸は約二千年もの長期間にわたって、米作りをしていた人びとの集落を見下ろし、見守ってきたのである。