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我が国で南北朝時代と呼ばれているのは、宮方の南朝(吉野)と武家方の北朝(京都)が、政権の確立を巡って対立抗争した時期である。
このころ大和を支配していた興福寺でも、一乗院が宮方に大乗院は武家方について、それぞれ隷属する在地の武士をまきこんで対立していた。
岡氏の場合は、鹿島社の宮座文書に北朝年号が用いられていることから、その頃北朝方の勢力圏にあったと考えてよい。
やがて南北朝が合一され、室町幕府の権威が確立した応永八(一四〇一)年、岡氏は興福寺の国民(春日社の被官)として南都に招集された記録があり、一乗院の支配下に属していたことがうかがえる。
次いで応仁の乱のきっかけとなった畠山家の内紛(文正の乱)ごろには、大和南部の越智・万歳氏と共に、畠山義就方に加わり、畠山政長方の筒井・箸尾・高田などと対立している。
ところが、延徳二(一四九〇)年に、岡氏と万歳氏の間に用水を巡る紛争が起き、岡氏は高田・箸尾・越智などの合力によって万歳氏に圧勝している。
このことをみても、かつての盟友が時には対立抗争の関係に変わる戦国の世相をよく理解することができる。
さらに時が経過して、永禄三(一五六〇)年奈良に進攻した管領家の細川氏の重臣三好長慶の家臣松永久秀は、奈良市に多聞城を築いて、大和武士団の一方の旗頭であった筒井順慶の軍勢を打ち破った。
そのころ、岡因幡守・岡周防守の一族は、高田氏らと共に松永方に組し、万歳・箸尾・片岡氏らの筒井方に対抗している。
ところが全国の統一をめざす織田信長に抵抗した久秀は、天正元(一五七三)年信長に破れ、大和が再び筒井方に支配されていく。
こうしたあわただしい動きの中にあっても大和の武士団は、小範囲の在地の武士を支配して、相変わらず対立抗争をくり返していた。
そのために大きく結束し得なかった大和国衆は、分立し弱体化した武士団となって、天下の動きに対応できず、歴史の流れの中で押し流されてしまう。
天正八(一五八〇)年天下の統領の地位についた信長は、一国一城令を出して大和の諸城をとりこわし、筒井氏の郡山城とその領土を安堵した以外、国衆のもつ田畑・屋敷・山林の一切を指出(報告)させたのである。
かくして、地下民衆を度重なる戦火にまきこみながら城主の地位を維持してきた岡氏は、松永に組し筒井・織田方に対抗した結果、ついに城主岡彌二郎が生害して長い間の活躍の幕を閉じる。