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(5)伝統産業─金剛砂の採掘─

ページID:0007564 更新日:2021年12月13日更新 印刷ページ表示

中世武家社会の展開

(1)鹿島社と結鎮座

(2)畑城跡と岡一族の砦

(3)岡一族の興亡

(4)片岡氏とその城塁跡

(5)伝統産業─金剛砂の採掘─

 香芝市には、古い伝統的な歴史をもつ産業の一つに、金剛砂(柘榴石)の採掘がある。
 この金剛砂は、二上山の火山活動で噴出した岩石に含まれ、その母岩の風化に伴って流出し低地に沈積したものである。
 歴史上、この金剛砂の利用に関しては、古墳時代の玉石の研磨までさかのぼるのではないかと思われる。
 しかし、記録では『続日本紀』にみえる天平十五(七四三)年「逢坂山の砂を用いて玉石を冶む」とあるのが国史上の初見であろう。
 その後、貞和三(一三四七)年の『興福寺造営料段米田数』には金剛砂御園として二十二町歩余の土地があげられ、特産地としての扱いを受けている。
 前者は奈良時代中ごろのことであり、後者の記録は南北朝時代のことである。
 とくに、貞和のころには、興福寺に金剛砂を貢進する御園として、荘園のなかでも特別の扱いを受け、採掘にかかわった座衆が領主によって保護されていた。
 また馬場の山田家に残されている江戸時代、天保年間の文書によると、金剛砂の採掘が村全体の共同事業として行われ、庄屋の管理のもとに商品として、遠く山陰地方の瑪瑠研磨用に出荷されていたことがうかがえる。
 こうして、採掘された金剛砂は、古代から長い間、玉石や金工・木工品などの研磨材として利用されたほかに、宮中の通路に敷きつめたり、建物の壁面の装飾に塗りこんだり、時代によっていろいろの用途があったと伝えている。
 二上山麓の大和と河内側に埋蔵されている金剛砂は、その採掘事業の営みも、古代からこの地域の生活と切りはなせない伝統的なものであった。
 更に明治以降の近代産業の発達に伴って、機械部品の研磨や光学レンズの研磨のために需要が増大し、ペーパー・砥石などの二次加工品にして全国的に販売されるようになった。
 そのため採掘の方法にも改良工夫が加えられ、戦後はほとんど既に採掘された土地の下層から、精細かつ広範囲に採集していたようである。
 現在では現地での採掘が休止され、国外からの輸入に依存しているようであるが、今後も香芝の金剛砂を用いたペーパーや砥石の生産が、伝統産業として更に長い歴史を積み重ねられることを祈りたい。

(6)伝統産業─鋳物の生産─

(7)乱世の歴史を秘める石仏