本文
畑城跡をとりまく穴虫・畑・磯壁などには、中世の信仰の名残を伝える多くの石仏が、古径の路傍や廃寺跡・墓地などに散在する。
これらの石仏を銘文によって年代順にみてみると、
畑領内には、
寛正三(一四六二)年 志満堂・地蔵石仏
寛正四(一四六三)年 一本松・阿弥陀石仏
磯壁領内には、
天文十(一五四一)年 下堂・地蔵石仏
穴虫領内には
天文十(一五四一)年 馬場墓地・阿弥陀石仏
天文十七(一五四八)年 西穴虫墓地・阿弥陀石仏
同 太子道・地蔵石仏
などであり、すべて室町時代末期に造立された石仏である。
これらの石仏のうち、一本松の阿弥陀石仏には「六斉念仏之為」と陰刻されており、太子道の地蔵磨崖仏や西穴虫墓地の阿弥陀石仏には、「逆修」の文字が彫り込まれている。
この銘文から考えられることは、当時、戦乱の社会に苦しんでいた民衆が、明日の生命さえ図り得ぬ自己の生前の記念碑として、自らの菩提を弔って造立した人びとの信仰がその背景にある。
とくに、この地域は、戦国時代の大和武士団の一人、岡氏の一族郎党が居を構えた土地であり、常に戦乱の渦中にまきこまれながら不安な日々を過ごしていた人たちが少なくなかった。
そのうえ、当時はこの地方にも一向宗(浄土真宗)が進出し、現世の苦悩を称名念仏によって救わんと、民衆への布教活動が盛んに行われていた。
高田の道場(現、専立寺)や馬見のマメ山道場(解散)など道場(説教場)ができ、地域への布教が進む。
市内でも穴虫の真善寺は、蓮如上人の大和布教のとき、上人に帰依した法西が、自家を道場に開基したという寺伝がある。
したがって、当時この地域の民衆の間には、領主の専制と圧迫に屈しながらも、念仏一向の教えが次第に広まっていったことがうかがえる。
そして、その結果として多くの石仏の造立となり、自らの生命を観念した逆修像となって、現在にその姿をとどめているものと考える。
もし石仏が答えてくれるものなら、造立した人たちの願いと訴えを、現在の私たちに語り聞かせてほしいものである。