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尼寺の般若院の周辺と少し北方にある香塔寺の東側の畑地から、古代の布目瓦が出土する。
また、般若院の境内とその東側の薬師堂の辺りに礎石がいくつか残され、香塔寺の東側にも土壇状の遺構があり、古代の寺院跡と考えられる。
ここから出土する古瓦は、鐙瓦(軒丸瓦)、宇瓦(軒平瓦)共にその種類が多く、作られた期間も白鳳期から平安時代まで、相当長期にわたっている。
ただ、残念なことには、採集された瓦の大半が町外の個人の所有になっていて誰もが容易に見ることができないことである。
だが、古瓦の出土や広い遺構の配置からみて、相当大きな寺院跡と推測はできても、はたして何々寺跡であると断定できる文献資料がない。
遺物の古瓦から、白鳳期の七世紀後半には、この地に大寺が創建されたことだけは確実である。
延暦七(七八八)年の『上宮皇太子菩薩伝』には、尼寺に聖徳太子の建立した般若寺があったと記され、応永六(一四〇〇)年の『春日文書』にも、葛下郡に般若寺や放光寺が存在した記録がある。
この放光寺は片岡王(僧)寺の伝があり、般若寺を片岡尼寺だとする見方がある。
それを裏付けるかのように、現存する般若院の仏像背面には「華厳山般若院、片岡尼寺・・・」の墨書銘が残っている。
しかし、この寺の創建は、記録に残されている上宮皇太子(聖徳太子)建立の般若寺で、太子の御子片岡女王の創建による寺か、それとも他の有力皇族級の寺か、明確に立証すことができない。
飛鳥古京を中心に栄えていた飛鳥時代の仏教文化圏に対し、遠く朝鮮半島の百済や新羅、高句麗からもたらされた仏教文化は、大和川をさかのぼった斑鳩の地でも開花した。
法隆寺を中心とする斑鳩に接する王寺町の周辺には平群町勢野の平隆寺、王寺の西安寺・放光寺など古代寺院跡があり、片岡尼寺跡も同じ文化圏とみることができよう。
とくに、尼寺の寺跡は寺域が広く、北遺跡と南遺跡と呼ばれているように二寺が存在したのか、一寺だったのかに疑問が残される。
しかし、二寺説に立って南・北遺跡(寺跡)の寺院立地をみると、南の般若院周辺は寺地の造成が容易な立地で、北の香塔寺東側の寺地は丘陵先端部を削り出して造成しているので、南の寺が北の寺より先に建立されたと推定される。
近年、香芝市では国の助成を得て、尼寺廃寺の寺域を確認するための発掘調査を、年次計画に基づいて実施してきた。
その結果、香塔寺東側(北遺跡)の土壇から、法隆寺と同じ半地下式の巨大な塔心礎を発見し、十二個の耳環を含む舎利荘厳具が検出され、北側の金堂跡とみられる土壇と共に、徐々に寺跡の様子が明らかになってきた。
そのため、研究者の間では、寺の創建年代や伽藍の配置、建立にかかわった人やその集団などについて、いろいろと意見が交わされている。
古墳時代の後期、大陸の須恵器製造の新技術が導入され、新時代の幕あけを迎えた片岡の里に、僧寺と尼寺などが建立され、仏教文化を通じて葛城山麓の古代文化圏へと接続して、同じ葛城の地域としてのまとまりができていく。