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(4)大津皇子と二上山

ページID:0007555 更新日:2021年12月13日更新 印刷ページ表示

古代律令時代の香芝

(1)平野塚穴山古墳とその被葬者像

(2)尼寺の古瓦と寺院跡

(3)壬申の乱と香芝

(4)大津皇子と二上山

 壬申の乱(六七二年)に勝利した大海人皇子は、その翌年、飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となった。この天武天皇は、自ら現人神と称して絶対的な権力をもって国政にあたり、天皇中心の律令政治体制を確立したといわれている。
 天武天皇には、最近発掘された束明神古墳(高取町)の被葬者ではないかと話題になった草壁皇子をはじめ、十七人の皇子や皇女がいて、二上山頂に葬られている大津皇子もその一人であり、額田女王の娘十市皇女もそうである。
 したがって、この絶大な権力をもつ天皇位を継ぐための立太子は、多くの皇子やその後援者にとって重大な関心事であった。
 なかでも、先帝天智天皇の娘鸕野皇女(持統天皇)の草壁皇子と大田皇女の大津皇子が最有力で、特に幼少時に母をなくした大津皇子は、文武にすぐれた男らしい人物の皇子であったらしい。
 そのため、草壁皇子の立太子決定後も、鸕野皇女の憂いを招き、謀叛のかどで死刑に処せられ二上山に葬られた。
 伊勢の斎宮から都に召された同母姉の大伯皇女は、二上山頂に眠る大津皇子をしのび、『万葉集』に、

現身の ひとなる吾や 明日よりは
 二上山を いろせとわが見む(巻二、一六五)
神風の 伊勢の国にも あらましを
 なにしか来けむ 君もあらなくに(巻二、一六三)

 と、今日なお、われわれの心にひびく、悲痛な叫びを感じさせる歌を残している。
 近年、二上山麓で発見された横口式石槨の鳥谷口古墳が大津皇子の墓であるとする説が浮上している。
 二上山は隣の當麻町にありながら、私たち香芝市の住民にとっても、朝日に映え、夕日の沈む雄大な山容に親しみを感じない人はいない。いかにも香芝の山のように思っている人が多いのではないだろうか。
 そして、大津皇子の悲劇の後、確立した律令体制と天皇の絶対的な地位が藤原京から平城京へと日本の都城を建設していく国力の充実となって示される。

(5)穴虫の火葬墓

(6)大坂越えの道

(7)古代条里制の名残り