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古代の律令制社会は、それまで豪族が土地や人民を支配していたのを、公地公民とし班田収授する方法によって、国家の財政と天皇の権力が強化された社会である。
班田制に基づいて口分田を人びとに収授するには、全国の耕地を整理して、収授に便利な地割をする必要があった。
一言でいえば、この土地割のことを条里制とよんでいる。
奈良盆地の条里制については、およそ現在の国道二十四号線に沿って奈良から橿原へ、古代の下津道が通じ、この道を中心に路東と路西の条里が区分されていた。
そして南北は下津道を基準に六町ごとに区切って北から順に何条と呼び、東西も六町ごとの区切りをして何里とし、この六町四方の大区割を「里」と呼んだ。
里は更に三十六の坪に細かく地割して、その十分の一を一段として公民への収授の対象とされた。
香芝市における条里制の遺構は、自然地形に制約された地割の困難さもあって、地域によっては判然としないところがある。
しかし航空写真によると、良福寺・狐井・鎌田の一帯に、水田の区画や道路の敷設、潅水路など、古代の条里制が遺存していると思われる整然としたものがみられる。
また、『香芝町史』で木村芳一氏は、香芝の条里復元に一つの試案を示されている。
それによると、葛下川流域の狭長な片岡谷の条里に問題を残しながら、今泉の「八ヶ坪」を十五条二里十八坪にあて、鎌田の「十六坪」を二十三条八里十六坪と、古文献に依拠する隣接地条里との関係を整理し復元しておられる。
古代の条里は、律令制社会の制度としてだけでなく、律令制度が崩れ荘園制に移行したときにも、田地の売券に記され、土地の所在を正確に示す表記として活用され続けた。
私は、この条里制にみられるような整然とした市内の地割が、今日の都市計画に取り入れることができたら、さぞかし立派な町づくりができるのではないかと思うことがある。