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(2)式内の古社

ページID:0007530 更新日:2021年12月13日更新 印刷ページ表示

平安京と藤原氏の全盛期

(1)律令制から荘園支配への移行


(2)式内の古社

 平安初期に編纂された『延喜式』と呼ばれる政令集に、中央政府の神祇官が幣帛を奉る官幣社と地方役人の国司が奉幣する国幣社三千百三十二座を、国別に記録した神社神名帳がある。
 この神名帳に記載されている式内社に対して、記載されていない神社を式外社と呼んで区分している。
 香芝市に所在した式内社には、志都美神社、大坂山口神社の二社と、今日社名のみられない深溝神社の三社が市内にあったと考えられている。
 しかし、古代の律令制度が崩れ奉幣の儀式が励行されなくなると、中には式内社であった由緒ある社歴も、不明確になってしまった神社が出てくる。
 今泉の志都美神社は、明和四(一七六七)年奉納の手水鉢に八幡宮の刻名があり、『大和志料』にも「俗に志都美八幡と称す」と記されている。
 また鎮座地の小字名が「清水」なので、志都美八幡と呼称されたとも伝え、社地に清水の湧き出ずる泉が現存することや同じ祭神の誉田別(応神天皇)を祀る石清水八幡になぞらえて呼び改めたとする考え方がある。
 ともあれ、江戸時代の『大和名所図絵』に、上里村(今泉もその一部)にあることがはっきりしており、「神祇志料」にみられるように、志都美八幡社は志都美神社と呼び改め、古代の延喜式内社とみるのが妥当と思われる。
 大坂山口神社については、先の「大坂越えの道」でも少しふれたが、大和と河内を結ぶ大坂山の峠道との関係を無視しては考えられない。
 現在、穴虫と逢坂に山口神社を呼称する二社があり、江戸時代の『大和名所図絵』や『大和志』などは大坂山の入り口に近い穴虫説をとっている。
 しかし、逢坂の山口神社に伝えられる中世文書には、「ヤマノクチ」の記録があり、八尾市の慈願寺に残されている穴虫「真善寺」の記録では、逢坂と穴虫は同じ大坂郷に属し、中世末頃の分村に当たって二社に分祀した可能性がある。
 いずれにしても、大坂山を河内から大和へ越えてくる相当広い範囲の山地の入り口であったと考えると、両社それぞれに式内大社の故地とみてもよい理由がある。
 近年、逢坂の大坂山口神社の神宝類を学術的に調査した結果、平安時代末期の木造吽形狛犬を最古に、鎌倉時代の木造男神坐像・女神坐像、牛頭天王立像、木造狛犬一対の他、室町時代末期~江戸時代の彫刻や古文書・祭具が確認され、大坂山口神社の歴史を示すものとして香芝市の文化財に指定された。
 逢坂・穴虫の両社の祭神が明治初年には、牛頭天王(素盞鳴命)であったことを、逢坂の山口神社の場合、鎌倉時代に造られた牛頭天王の神像によって証された。
 『香芝町史』の「式内社考」で志賀剛氏は、葛下郡内で所在不明となっている深溝神社を、下田の鹿島神社と推定している。
 そして、その根拠として、「杜の宮」と呼ばれる鹿島神社の社地が条里制の一坪の広さを占め背景に下田の集落がある。
 周辺の式内社へは約半里の位置にあって式内社の分布原則に合致し、更に、下田のあたりは深溝の名にふさわしい築堤のなかった川である。
 などの理由をあげている。
 この鹿島社のことについては、後稿でも更に述べることにしたい。

(3)葛城の修験道

(4)源信僧都の誕生地

(5)平安期の仏教遺産

(6)興福寺の平田荘と片岡荘