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古代律令社会での公地の班田収授は、養老七(七二三)年の三世一身の法、天平十五(七四三)年の墾田永世私財法にみられるように公地の不足によって班田制がくずれ、平城京の華やかな繁栄の反面で律令制度に動揺がみえはじめていた。
それが平安時代になって新しい墾田の私財化が進み、貴族や寺社の特権に保護された荘園の形成によって著しく崩れていく。
当時の香芝市の様子を物語る資料が少ないので、明確には、そのころの状況を知ることができない。
平安初期に編集された『倭名類聚抄』(和名抄)によると、大和国の葛城下郡には、つぎの七郷名がでている。
品寺(王寺?)・神戸(匹田、大畠?)・山直(逢坂付近?)・高額(染野?)・賀美(志都美上村?)、蓼田(高田?)、當麻の各郷で、『大和志料』では、それぞれ( )内の土地をあてているが確定されたものではない。
ただ、この七郷が旧北葛城郡に属していた地域にあったことになるが、今日、その所在については、諸説それぞれに根拠をもっている。
のうち香芝市に関係する郷名としては、片岡谷の上里村にその名をとどめる賀美郷と二上山北麓の山直郷、それに五位堂のあたりが域内であったと考えられる高額郷、二上山東麓の當麻郷がある。
山直郷には、越後城司威奈大村の帰葬された山君里が含まれていた。
そこで、私は『大和志料』で「染野」にあてようとしている高額郷を五位堂・瓦口・別所の市内東部と大和高田市の大谷辺りの低湿な平地にあて、鎌田・狐井・良福寺・磯壁は當麻郷に含まれていたと考えるようになっている。
その理由は、良福寺の千股の地名が伝える當麻の衢、磯壁の腰折田の伝説など、古代に當麻郷域であったことを示している。
ところが、古代の律令制が崩壊していく過程で、大化改新の功臣鎌足や律令制定の立て役者不比等を祖先にもつ藤原氏が、平安遷都後も中央政府の役人として権勢を伸ばし、その権勢を利用して各地に多くの荘園をもつようになった。
この多くの荘園からの収入が基になって、やがて藤原氏の摂関政治が開始される。
のころ葛下郡の各郷の中では、摂関家の荘園としてその支配下に置かれたところが多く、隣接する広瀬郡や高市郡にまたがる広範な荘園を形成していた。
この広大な荘園は、後に平田荘と呼ばれ、摂関家の氏寺であった興福寺の一乗院に寄進され、平田庄司の管理下に置かれる。
一方、片岡地方にも片岡荘が形成され、共に興福寺の荘園として、中世の在地武士団(片岡氏の支配地)を形成する基盤になった。