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平安時代中期の高僧源信(恵心)僧都について、その生国とされるこの地方では「恵心さん」と親しみ深く呼ばれ、阿日寺(良福寺)・福応寺(狐井)・高雄寺(新在家)などの寺伝とかかわっている。
恵心僧都は、政治の腐敗と武士の抬頭によって社会不安が強まっていくなかで、『往生要集』を著し、人びとに極楽往生の教えを説き浄土教を広めた。
当時、盗賊の横行や疫病の発生に苦しみ、末法の世の到来したものと失望する民心を、「永遠の生命と無限の世界に通ずる阿弥陀仏を信仰することによって救われる」と説き、鎌倉時代の庶民仏教の成立をうながした。
その意味で恵心僧都の思想は、現代人にも大きな影響を残している。
説話集『今昔物語集』の記述やそのもとになったとみられる『法華験記』によると、恵心僧都の生国は大和国葛下郡であるとし、大江匡房の『続本朝往生伝』のなかでは、當麻郷の人であったとさらに詳しく生地を指示している。
また、これらの僧都に関する伝記には、生母が男子の懐妊を祈願し、後に僧都自身が幼少時に斎戒修行した縁故の深い寺院に、同じ葛下郡内の高雄寺があったと記す。
この高雄寺について、『大和志』では新在家村に所在すると注記している。
更に、狐井の福応寺の由緒には、恵心僧都創建の伝えがあり、「版仏如来」という板仏を本尊としていたことが『大和志』に記され、良福寺の阿日寺も僧都誕生の故地であると伝えられている。
このように良福寺や狐井には、名僧恵心僧都との縁故を伝承する寺院がみられ、當麻郷に近く、その一邑であった可能性を考えると、僧都の生誕地がこの辺りであったことが理解できるだろう。
ともあれ、私たちの住む二上山麓のこの地から、日本の仏教思想史上稀にみる名僧を世に送りだしている。
この事実に誇りをもち、大先輩の恵心僧都に続く人材を育てるため、市民のみなさまと共に青少年の教育を大切にしていきたいものである。
視点を変えて、恵心僧都が阿弥陀仏を信仰することで浄土に往生できると説いた背景には、幼少の頃に二上山の山間に落日の映える彼岸の印象が心に焼きついていたからであるといわれ、浄土教の来迎図にみられる山越阿弥陀如来に、その時の僧都の心情が示されていると説く人がいることに注目したい。
そして、高雄寺に隣接し、二上山の雄岳と雌岳の雄大な山容を近望できる地域こそ、高僧恵心の誕生地であると考えている。