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延久元(一〇六九)年、摂関家と外戚関係のなくなった後三条天皇は、藤原氏の新立荘園の整理をめざして荘園整理令を出した。
翌、延久二年の『興福寺雑役免帳』には、現在の香芝市内と思われる地域に、平田荘と片岡荘の荘園名が出てくる。
南都興福寺は、藤原鎌足の建立した山階寺を、その子、不比等の代に藤原氏の氏寺として奈良に移し、以来、氏神の春日社と共に栄えてきた。
とくに藤原氏が摂政関白の地位を独占して専横をきわめたころには、隣接する他の多くの荘園や国衙領をとりこみ、その寺領を拡大していった。
興福寺領平田荘は、康和三(一一〇一)年に法隆寺末の定林寺、妙安寺から、右大臣藤原忠実に提出された解文(訴状)によると、両寺の官省符田(公認の荘園)の農民が、平田荘の庄司の威をかりて所当米を滞納し、代わりにわずかの軽物(絹)しか納めないので、これを止めさせてほしい訴え、更に、本来興福寺の平田荘は御油と御服の免田が百町歩であったが、いまでは千二百余町歩もの出作田をとりこんでいると告発している。
事実、久安四(一一四八)年の『大和平田庄田数注進状』では、二千二百九十五町一反十二歩に増加しており、平田荘の拡大のはげしさがうかがえる。
そして、この注進状に記されている西金堂坪々の十八条三里・十九条一里・弐拾条四里・弐拾一条四里・僧慧融領の十九条一里・十九条二里・僧斉順領の二十二条三里が、香芝市内の条里に該当すると思われる。
また、片岡荘については、『興福寺雑役免帳』に真野条の五里・六里・七里と墓門条の四里に、田畠十七町一反三百四十歩が所在すると記されている。
しかし、真野条・墓門条は片岡谷の志都美地区にあてる説と、馬見丘陵内にあてる説があって確定しがたい。
ただ、両条里とも自然地形に制約された特殊条里区であったことが想定できる。
これら平田荘や片岡荘の荘園経営は、本所である藤原氏と領家の興福寺のもとに、現地の荘司や寄人がいて、年貢収納などの管理に当たったと想定される。
やがて、その荘司や寄人が、荘園の実質的な支配権をもつ衆徒・国民と呼ばれる在地の武士団を形成する時代がやってくる。