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明治二十二(一八八九)年の近代町村制の実施によって成立した五位堂・下田・二上・志都美の各村は、我が国の近代化とともに歩み続け、第二次世界大戦後の「地方自治法」のもとに、地方公共団体としての新しい自治組織を確立する。
そして、新しい六・三・三制の教育制度を推進する中で、先の四か村は、昭和二十四(一九四九)年に組合立の香芝中学校を発足させた。
地方自治の具体化による行政の多様な変化は、全国の弱小な自治体にとって大きな財政的な負担となった。
その課題の解決策として、政府は町村合併を促進し、地方財政の確立をめざした。
昭和二十八(一九五三)年法律第二百五十八号で、「町村合併促進法」が公布され、市町村の行政区域を拡大する取り組みが始まる。
全国の各地で町村合併が成立した報道が多くなってくると、香芝中学を組合方式で設立した四か村は、法律に基づく審議会を設置して、合併の協議を軌道にのせる。
まず昭和三十年九月に五位堂村と下田村の間に合併約定書が交換され、合併促進協議会が設置されることになった。
続いて同年十二月に二上村で「香芝中学校関係村の合併を理由として漸進すること」の決定があって、合併促進協議会が作られる。
翌三十一年二月には志都美村で五位堂村・下田村・二上村・志都美村合併促進協議会が設置され、四か村の合併に関する協議が本格的に進展する。
二月の中旬になって、志都美村のうち畠田の一部は一年後に王寺町へ境界変更すること、新しく建設する庁舎の位置は近鉄下田駅周辺とすること、新町名を香芝町とすることなど合併のための基本方針がまとめられ、遂に三月十三日下田村役場会議場で正式に調印される運びとなった。
式後ただちに合併申請書が奈良県知事に提出され、開会中の県議会の本会議に提案議決されるスピード決定で、県から政府に上申書が提出された。
昭和三十一(一九五六)年三月二十九日付総理府告示第八十号には、「地方自治法第七条第一項の規定により、奈良県北葛城郡五位堂村・下田村・二上村及び志都美村を廃し、その区域をもって香芝町を置く旨、奈良県知事から届出があった右の廃置分合は、昭和三十一年四月一日からその効力を生ずるものとする」と官報告示され、住民待望の新しい「香芝町」が誕生した。