本文
昭和三十年代になると、日本の経済が急速に成長し、産業構造はより高次な方向へと進み、第二・第三次産業の就業率は年々高まってくる。
その結果、香芝町内の専業農家戸数は急激に減少し、兼業化する農家、とくに農業を副業とする第二種兼業農家の増加が目立ってきた。
大阪方面への通勤に至便な町内からは、都市の工場や会社などへの通勤者が増え、離農して他産業に従事する農民が多くなった。
裏作を放棄して省力のための機械化が進むと、専業の農家でも副業的に小規模な事業を始めて勤務の休日を利用して自家用の飯米だけを確保する農家が増え、農業収入以外の収入の道に重点を置く農家の生活にかわる。
昭和四十年代に入ると、輸入食料品の増加傾向が強くなり、政府が水田の作付減反の休耕政策を実施し、農業の収益性が徐々に悪化の一途をたどる。
一方鉄道による大阪への通勤圏にあった本町内に更に西名阪高速道路が開通し、大阪のベッドタウン化が進み、農地は次第に住宅地に転用されていく。
そして、昭和三十五年に三百五十八戸あった専業農家は、十年後の昭和四十五年には八十一戸に激減し、農業生産額の町民所得に占める割合は急速に低下した。
反面農地の宅地化は、従来少しずつ近鉄や国鉄の駅周辺を中心に進められていたが、昭和四十三(一九六八)年に制定された新都市計画法に基づき、市街化区域及び市街化調整区域の線引きが行われ、新しい町づくりが計画的に推進されることになった。
また、昭和四十四年三月には大阪と名古屋を結ぶ高速自動車道「西名阪道」が開通、産業界の期待が大きい。
ともあれ香芝市では、磯壁や良福寺などかつての田園地帯に新しい団地がひらけ、明神山の東南斜面や馬見丘陵の南部の丘陵地帯も造成されて新興住宅地がひらけつつある。
そして、石器時代以来幾世代もの先人たちが、生活の舞台としてきた二上山北麓は、今や近代的な住宅都市に変貌しようとしている。