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(1)明治の政変と奈良県の成立

ページID:0007525 更新日:2021年12月13日更新 印刷ページ表示

近代化への歩み

(1)明治の政変と奈良県の成立

 慶応三(一八六七)年十月、徳川慶喜は政権を朝廷に奉還し、薩長を中心とする倒幕勢力と岩倉具視らの公卿が新政府の主導権を手にした。
 ところが、旧幕府方は鳥羽・伏見の戦いをはじめとする戊辰の内乱を起こし、一年有余の間、新政府に抵抗した。
 この戊辰戦争が新政府軍の勝利に終わったとき、幕府の所領は新政府に没収され、名実ともに江戸幕府が滅亡した。
 大和国内にあった天領や旗本の知行地は、鳥羽・伏見の戦いの後いちはやく新政府によって没収され、慶応四年五月奈良県が編成された。
 しかし、この時の奈良県には、郡山藩をはじめ、高取・柳生・小泉・柳本・芝村・田原本・櫛羅の八藩領は含まれていなかった。
 香芝市でも、天領の逢坂村や旗本水野氏の知行地瓦口・別所村が奈良県の管轄下に組み入れられ、下野国の壬生藩領に属した鎌田村と郡山藩領であった他の大半の諸村はいぜんとして両藩の治下におかれていた。
 明治四(一八七一)年七月、新政府は旧藩主の版(土地)籍(人民)奉還の願いを受入れ、藩制を廃止する廃藩置県令をだした。
 このとき、旧藩領は一時的に県名をとなえ、前述の奈良県と郡山・高取・柳生・小泉・柳本・芝村・田原本・櫛羅・壬生などの諸県が、大和国内に成立している。
 したがって、私たちの住む香芝市は、逢坂・瓦口・別所が奈良県、鎌田が壬生県他の村々は郡山県と呼ばれた一時期があった。
 ところが、その年の十一月大和国内の諸県は、中央集権化をめざす新政府の施策に基づいて統合され、新しく奈良県を呼称した。
 しかし、その後この奈良県も、政府の府県統廃合の方針によって、明治九(一八七六)年には金剛・葛城山を越えた堺県に合併され、同十四年にその堺県が大阪府に合併されている。
 大阪府に合併された大和は、大阪府政のなかで、風水害に対する復旧費の配分や地租に関係する地価の減額で、摂津・河内・和泉などの地域とは不利な扱いを受けた。
 そのため、奈良県を復活再設置する運動を起こし、その運動が成功して、明治二十(一八八七)年十一月、旧大和国が再度奈良県として独立することになる。

(2)大・小区制度と旧村の伝統

(3)地方制度の再編成

(4)近代化への歩み

(5)地租改正と小作農の増加

(6)町村制の公布と新村の成立

(7)新しい村財政のやりくり