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(7)新しい村財政のやりくり

ページID:0007572 更新日:2021年12月13日更新 印刷ページ表示

近代化への歩み

(1)明治の政変と奈良県の成立

(2)大・小区制度と旧村の伝統

(3)地方制度の再編成

(4)近代化への歩み

(5)地租改正と小作農の増加

(6)町村制の公布と新村の成立

(7)新しい村財政のやりくり

 明治二十二(一八八九)年、新しく発足した近代の各村々は、明治三十(一八九七)年八月に、旧来所属していた葛下郡と隣接する広瀬郡を合併した新しい北葛城郡の誕生によって、その管下に入る。
 このころ、五位堂村では年間の財政が膨脹し、全四百十余戸のうち四百戸近くが、多少の村税を負担しなければならなくなった。
 賦課等級は一等(一円五十八銭七厘)から十八等(一銭一厘)まで細分化されていたにもかかわらず、毎年異議の申し立てがあったと伝えている。
 それは軍備の拡張による戦費調達の必要から、従来地方税であった営業税を国税にしたことや、わずかな国庫補助金の交付で政府が地方自治体への委任事務を増やしたことなどによる。
 こうした地方自治体の深刻な財政難を打開するため、各村々は、村民に勤倹貯蓄を奨励し、村長はじめ村会議員、役場吏員が先頭にたってこの運動を展開した。
 村当局も現金をもたないで村基本財産、学校基本財産を株式投資や債券にかえ、資金を蓄積する一方、軍事資金の献納にも協力したために、政府の民間資金を吸い上げる国策にそう結果になった。
 明治三十二(一八九九)年、下田村が決定した「北葛城郡下田村勤倹貯蓄規約」(『香芝町史』)をみると、その目的は他日出費に備えるとしながらも、その第十二条に

一、社寺、祭礼、法会其の他の式典に付、神輿・太鼓台・他車等の引廻しを廃し、虚飾華美に流るべからざること。
二、何れの場所を問わず、総て盆踊りを廃止すること。
三、歳首、五節句の祝宴及び物品の贈与を節すること。

中略

八、上棟開店等の費用を節し、且物品の贈与を廃すること。
九、年忌の仏事の費用を節し、総て禁酒すること。
十、婚礼の式費を節し、且物品の贈与を節すること。
十一、出産に際し、見舞い及祝いを廃すること。
 但し配偶者の親元は此限にあらず。
十二、葬式の費用を節し、且禁酒となすこと。
以下略

 など具体的に勤倹する多くの内容を示している。
 当然この規約は、住民に財力をつけ担税能力を高める目的で制定されたものであり、住民の自発的なものではなかったので、その後何回か改正されているようである。
 こんなに各村が努力しながら、実際には税金の滞納額が多く、国や県への納税すら期日内に徴税できなかったという。
 特に、明治三十七~八(一九〇四~五)年の日露戦争ころには、村費を極端に切りつめた緊縮財政とみられ、村民の台所はますますその苦しさを増すのであった。