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(5)地租改正と小作農の増加

ページID:0007563 更新日:2021年12月13日更新 印刷ページ表示

近代化への歩み

(1)明治の政変と奈良県の成立

(2)大・小区制度と旧村の伝統

(3)地方制度の再編成

(4)近代化への歩み

(5)地租改正と小作農の増加

 明治新政府の財政を確立するための地租改正事業は、明治六(一八七三)年七月に実施された。
 そのころまだ旧幕藩時代の慣行にしたがっていた租税は、主に米を中心とする現物納であり、豊凶や相場の高低で国の歳入が変化し、計画的な財政運営が困難であった。
 そこで政府は、国の税収の大部分を占めていた地租の徴税方法を統一し、現金による収納を企画する。
 その前段階として、まず明治四年に江戸時代以来の作物の作付け制限を解き、換金作物の栽培を公認する。
 続いて翌五年には、百姓を土地にしばりつけていた田畑の永代売買の禁令を解除し、土地の売買を自由にした。
 そして、土地の所有者に地券を交付して課税の基礎を明らかにし、その所有者(地主)に地価の百分の三の地租を現金で納付するよう義務づけた。
 こうした近代的な地租制度の導入も、政府が国の歳入を減らさない方針のもとでは、農民の負担は江戸時代とほとんど変わりがなかった。
 かえって、農産物価の下落した経済の不況時には、貨幣収入が減少して農民の生活は深刻であった。
 一方、地券の交付によって、土地そのものが売買の対象となると、生活に苦しむ小農民は、土地を手放して小作農に転落するものも少なくなかった。
 小農民の手放した土地は、経済的に余力のある地主や自作農のものとなり、地主の寄生化とともに小作農の問題が社会的な重大事となる。
 しかも、小作農は地主に従属して耕作権が不安定なうえ、高率の現物小作料を納めなければならなかったため、江戸時代以来長く続いた苦しい生活から解放されることはなかった。
 奈良県の統計によると、明治二十三(一八九〇)年の葛下郡の小作面積は総耕地面積の四十四・四パーセント、日清戦争後の明治三十三(一九〇〇)年には北葛城郡(葛下・広瀬両郡合併)の小作地率が五十八・七パーセントとなっている。
 それが、昭和五(一九三〇)年の香芝市域の小作地率は、五位堂村六十三パーセント、二上村七十四・六パーセント、下田村五十七・七パーセント、志都美村六十パーセントとなっていて、割合では小作地が増加の一途をたどっている。
 こうした、小作地漸増傾向の中で、大正十四(一九二五)年、志都美村で小作料の軽減を求める小作争議が起き、農民は慢性的な農村不況の中で呻吟する。
 この小作制度の変革は、第二次世界大戦後の農地改革の課題でもあった。

(6)町村制の公布と新村の成立

(7)新しい村財政のやりくり